第121回創立記年日にあたり|2011年6月

 明治23年(1890年)6月1日に赤沢保育園は創立致しましたので本日は第121回目の記念日に当たります。記念品に代わりましてささやかですが粗菓を用意いたしました。ご賞味のよすがにと拙文にお目通し戴ければ光栄です。
 さて当保育園の法人名は左の玄関の看板の通り「守孤扶独幼稚児保護会(しゅこふどくようちじほごかい)」と申しますがその由来と意味するところをご説明させていただきます。 創立者赤澤鍾美(あつとみ)は明治11年から公立小学校の教師を勤めておりましたがその後明治23年小中学校課程の私塾を開設致しました。 当時の教育事情状況について若干ご説明いたしますと、明治初年当時の一般家庭の経済水準は今では想像できないほど貧しく低いものでした。大半の家庭はその日の糧・食糧を確保することで精一杯というところで、せっかく明治政府が明治5年に義務教育制度を発足させ、現在と同様に7歳になると小学校に通学することを義務付けてみても、子どもが一日弁当を持って通学出来るだけの余裕ある家庭は本当に少なかったようです。

 明治20年頃の新潟町(新潟市となったのは明治22年)の入学率は20%前後で、すなわち5人に1人がやっとでした。また当時の一般家庭の子ども達は7~8歳ころになると男子は職人の徒弟(見習い弟子・手伝い)や商家の丁稚小僧(でっちこぞう・最下級の見習い奉公人)に女子は裕福な家庭や商家の家事見習い手伝いとか子守りとして生家親元を離れて他家に住み込んで働くことが多かった。その理由の大半はまず口減らしで親の子ども達の食費負担を軽減することでした。

 公立校に通学するゆとりのない子女で学習(基礎的な読み書きそろばん等)を心掛けるものは手近な学習所や知識ある個人に何がしかの謝礼(束脩・そくしゅう)を持参してその目的を達したようです。

 鍾美は小学校教師でしたのでそのような希望者に恵まれ求めに応じて「静修学校(せいしゅうがっこう)」と命名の私塾を礎町4丁目に開設発足したのが明治23年6月1日のことでした。その後明治26年に本町通り8番町の通称八軒小路に移り、さらに明治36年東湊町通り1ノ町(現在地点の西方40mほどの地点)に移った。礎町・本町通りの舎屋は何れも借家住まいでしたが礎町・本町当時の卒業生在校生が主体となって資金を集めさらに町の有力者などの後援ご協力を戴いて東湊町に専門の舎屋を建設して寄贈を受けて晴れて自前の校舎を保有するに至りました。その新校舎「静修学校」には発足当初から求めに応じて実施していた幼児保育のための保育室も併設されました。創立者鍾美は学校教育が主体で保育事業はついでのつもりで実施していたが、東湊町通に舎屋移転を機に幼児保育についても片手間ではなく本格的に取り組む決意を固めた。そしてその決意を「守孤扶独幼稚児保護会」なる名称で表明したのでした。その意味するところは、「孤は保育に孤なる児を守り、独は独り親を指しその独り親を扶(たす)け、そのような状況の幼稚児を保護する会」と命名した。

 その後、昭和23年児童福祉法が制定されその条文の中で保育所の機能が規定定義された。それによると保育所は保育環境が保護者の主として勤労により十分でない(欠ける)児童を援助する保育施設と定義された。「守孤扶独幼稚児保護会」の名称が児童福祉法の保育所の定義の主旨に添っていることと保育活動の開始が明治23年ということから、これぞ保育所の第一号となった次第です。 赤澤鍾美は昭和12年3月、72歳で亡くなりました。孫の現園長6歳のときでした。

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ママ・パパも お宝駈けるなり 亀田公園

 去る5月20日、きっちりお天気に恵まれて無事に遠足を終了することができましたことを喜んでおります。

 園児達が元気一杯に目的地の亀田公園の中を走り回る様子を眺めながら、表題の下手な句が頭に浮かんできました。さすがの「何でも鑑定団」も値段の付けようのない、ご両親にとっての大切な大切なお宝さん達が、亀田公園を元気一杯に走り回りました。

 お天気が良かっただけに最年少のひよこ組さんにとっては暑さのため体力的に少しきつかったようです。疲労のためか土日を経ての月曜日からのお休みは通常よりも増えました。また遠足後の気候の寒暖の差が大きかった影響も重なったためか、その後も軽い風邪引きが目立ちました。

 園児達は行事の一つ一つを経験する度に目に見えて成長致します。

とん汁も作って味わいました。

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6月の主な行事

 6月の主な行事は、運動会です。これも親子参加です。会場は近くの豊照小学校の室内運動場。実施運営には保護者の皆さんのご協力をお願いいたします。見学応援は自由ですから、一家そろってお出かけ戴く楽しい機会です。お楽しみに。

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園庭に子どもの家を造りました

 狭い園庭ですが左下の写真は園庭内の遊具を撮ってみました。ブランコ・滑り台・ジャングルジム・登り棒・雲梯と揃っております。この写真の撮影位置の後ろ側が砂場です。その砂場の奥に右下の写真のような「子供の家」を造ってみました。10年以上前になりますが、園長が手作りで子ども達のリクエストを取り入れながら赤ずきんちゃんのおばあさんの家を念頭にメルヘンチックな家を造りました。子ども達はそれで熱狂的に遊んでくれたことが思い出されます。

 今度は北海道に本物の山小屋建築の経験もある元本職大工さんの製作です。子ども達の新しい楽しみとなることでしょう。

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第四銀行住吉町支店で園児の絵画展

 上大川前通り12番町所在の第四銀行住吉町支店内の待合室ロビーの壁面展示個所に、園児達の作品を展示して戴くことになりました。展示期間は6月13日(月)からの予定です。終了の日取りは未定ですが、6月末までは展示していただけるかと考えております。

 なお展示作品の園児名表示は、想定外事態を考慮してフルネーム表示ではなく太郎、花子だけの姓を省いての表記をご了解下さい。

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年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず|2011年5月

年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず(ねんねんさいさいはなあいにたり さいさいねんねんひとおなじからず)

 春になりました。近くの豊照小学校の桜も今年も同じように見事に咲きました。園児達のメンバーは少しずつ変わりましたが、4月18日に今年も同じようにお花見散歩を楽しみました。

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英語学習開始時期のまとめ:

 3月の園だよりから始めたこの問題ですがまとめを試みますと‥‥、

 10歳頃までに育った言葉の訛りは一生消えないものと一般的に言われております。その通りかも知れませんが必ずしも決定的ではありません。東南アジアの各地に旧日本兵(最近ではほとんど亡くなられましたが)が各地で発見されましたが、その方々の大半は日本語を忘れて現地語以外話すことができないようです。当然の事です。新潟ではあまり実例がないかもしれませんが、帰国子女が日本に住まい始めて何年も経たないのにせっかく憶えた外国語をすっかり忘れてしまう例は珍しくありません。

 英語辞書の神様岩崎民平や同時通訳の草分け国弘正雄も何れも(旧制)中学に入って初めて英語に接したと3月号で紹介しました。4月号では英語とは違いますが伊能忠敬のように50歳を越してから学び始めた測量学で世界的レベルの高水準の地図を作製したことに触れました。要は強固な動機と継続する努力がある程度のレベルに達するまでは不可欠なことを強調致しました。

 子ども時代は新しい事が大好きで分からないことを知りたがる好奇心の塊りの時期です。その好奇心の強さが学ぶ動機の強さに比例します。また同時に子ども時代は気まぐれの時でもあります。長続きしないですぐに別なものに気持ちが移りやすいことも特徴です。そんなことを繰返しながら何か打ち込めるものに突き当ることが大切です。

 大人の役割はその適する時期を選んで突き当る機会を出来るだけ多く用意してあげることではないでしょうか。これでは結局答えにはならないかもしれませんが。

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五月病 :

 ゴールデンウイーク前後になると耳にする日本独特の心のやまい症状をいいます。

 4月の新年度が始まってから一ヵ月、厳しい受験戦争や就職活動を耐え抜いて念願の難関大学に見事に入学したのはよいのですが、それまでの目標や生活リズムが大幅に変化し、新しい環境に対する初期の緊張感が和らぎ始める5月頃になると頭をもたげる心の不安定な状態を端的に表現した言葉が五月病と名づけられたようです。東大のキャンパスからこの名称は生まれたとも言われておりますが、東大生でなくとも、多かれ少なかれ誰しも環境が大きく変わった際には経験している現象です。入社・入学は人生の大きな節目ですから環境や生活リズムは大きく変化します。そんな時に誰しもが体験し乗り越えているのです。

 同様な現象は子ども達にも 乳幼児の段階から当然あります。子どもの場合は心よりも体ではっきりと拒否を反応します。幼児の場合は遠慮気兼ねなしに全身でそっくりかえって泣き叫んで表現します。時によっては第三者であっても見ていてもそのつらさを同感することもあります。肉親にとっては大変つらいことです。そこで負けてはいけないと分かっていても負けてしまいそうになります。

 そこで負けてはいけません。負けるが勝ちという諺がありますが、この場合、その諺は当りません。負けは負けです。大人の気持ちのつらさは結構あとを引きますが、子どもの場合は大人ほどいつまでも引きづりません。しかも最初が肝心です。いったん大人の気持が負けると子どもは敏感にそれを感じとり、次からはその大人の気持の弱さを十分に期待して子どもは精一杯拒否反応を表現します。そこで負けてはますますいけません。環境やリズムの変化に巧みに適応できる本性を引き出すことがますます遅くなり重症になります。

 心のたくましさや辛抱強さは人間の持って生まれた資質であって後天的なものではないといわれておりますが、実は幼少時の特に0~1歳時のこのような体験を通して培われ築かれるのではと実感しながら観察しております。人生のつらい体験を通して逞しさや辛抱強さが育っていくのだと考えるならば子育ての辛さは実は子どもの貴重な人間資質形成の大切な瞬間なのです。

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再び 「英語学習の開始時期」について考えます|2011年4月

 先月「3月の園だより」でこんなどえらい表題を掲げて難問に挑戦いたしました、が糸口を切っただけに終わりました。藪から棒にこんな難問を話題にしたのには実はわけがありました。それは園からさして遠くない場所に幼児向けの英会話教室開設の予定があり、大手の英語学習塾のその教室のおそらく先生?がその英会話教室の生徒募集のチラシを園の近くで配布を希望して園の了解を求めてきたことがキッカケでした。チラシを受け取った保護者がそのチラシを眺めて自分の子どもをその教室に入れたものかどうかと考えられた場合を想定して、その一助となればと先読みして書き始めました。

 先月では英語の神様と言われた方も、同時通訳の名人と称えられた方もいずれも中学に入るまでは英語の学習には縁はなく、中学に入ってから初めて英語に触れたことをご紹介しました。そのことで分かるように中学に入ってから始めても決して遅くはないのです。江戸時代、伊能忠敬が測量の勉強を始めたのは50歳を超えてからで、それから72歳まで日本全土を測量したのです。

 今年から小学校での英語学習が始まるようです。「小学生に英語授業が本当に必要?」とのテーマで地元の新聞が読者にその賛否を問う形式の特集コラムを設置しており興味深く見守っているところです。

  英語学習と限らず物事をある一定のレベルまで自分を高めるためには、その目標を極めたいとする強い動機と意欲と、それを継続する忍耐努力が不可欠であることが必要です。

 目標を定めそれを極めたいという意欲を持たせるためにはスゴイと感じ憧れる機会に数多く触れることではないでしょうか。

 人は気まぐれです。特に子ども時代は気まぐれのカタマリです。その気まぐれの中から特に強く感じたものに惹かれ動かされて動機が形成されます。

 英語の「education」は教育と訳されておりますがこの語のラテン語の元々の意味には「引き出す」という意味があるそうです。人に内在する能力を引き出すためには心が惹かれ動かされる感動が必要です。外国語を巧みに操ることにまず強い憧れをもつことが第一歩です。

 結局表題の答えには至りませんでしたが、何か学習を始めるにあたっての参考にはならないでしょうか。

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計画停電実施に備えて:

 連日のように報道されるこの度の大震災の被災情報を知るにしたがって、そのあまりにもけた外れの凄い被害状況に言葉を失います。現地被災者にとって計画停電の話はまるで関係のない遠い外国の話題のように感じられると、仙台在住で大震災を自宅で体験された作家の伊集院静氏は被災者の立場からそう感想を述べている。

 さいわい新潟地方では計画停電の実施はこれまでなかったが、しかし深刻な電力事情の事情から、今後の実施は避けられない見通しが強いようです。園として計画停電の実施がある場合に備えて次のように対策する方針でおりますので、保護者の皆様のご理解とご協力をお願いいたします。

 まず停電実施の場合、園施設として大きな不都合な点は次の装置が稼働出来なくなることをご承知おき下さい。

 ①暖冷房装置の稼働  ②照明装置 ③給食設備電機関連装置  ④電話装置(送受信の停止)  ⑤園内給水装置(トイレ使用の支障) ⑥TV受信、等々。

 緊急事態を想定して小型(14A)の発電装置をかねて購入用意しておりましたが、それを稼働しても照明の一部、電話装置維持、給水装置の稼働については何とか数時間は可能ですが、空調機や給食設備の運転まではできません。

 計画停電の実施があった場合、園としての対応は原則として次のように考えております。

 (1) 午前中(9時~12時)の停電の場合でも通常通りに開園します。給食は停電時でも調理可能な献立(例えばカレー、おにぎり、みそ汁等)で対処する予定です。弁当持参なしOKの予定。 (2) さいわいこれからの数カ月は暖冷房なしでもしのげます。 (3) 午後6時~9時の停電の場合照明なしとなります。ランプ等の明かり等で対策する予定です。

 実際には直前の計画に従ってその都度対策を決定して玄関の掲示板を通してお知らせいたします。その際はご注意ねがいます。

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啓 蟄 

 旧暦の二十四節気(せっき)では3月6日から21日の春分までの15日間をこう呼んでいます。

 啓蟄とは土の中に潜んでいる虫が春の暖気を感じて地上に這い出してくることをいいますが、新潟県地方の三月の気候はその気配・啓蟄にはまだ程遠い。とはいえ、暦の移ろいは確実に日差しの強さや朝晩の明るさ等で随所に感じられます。

 2月20日頃からこの編集内容に着手し始めた「園だより」ですが、ここ最近の世界の動きの目まぐるしさは一体どうしたことでしょう。季節の変化を追うような心境どころではありません。世の中一寸先闇、何が起こるか分りません。中でもニュージーランド南部を襲った大地震、語学研修のため同国滞在中の多数の日本の若い人々が被災されたことにはびっくりすると同時に被害の深刻さに暗澹たる思いです。亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りします。

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英語学習について:

 この3月でぞう組の皆さんはめでたく卒園されます。ご本人はもとより保護者の皆様もこれからにはいろいろと胸ふくらむ思いかと存じます。

 英語学習の開始時期:音楽の絶対音感は3歳頃で決まるといいます。音楽と言葉学習と一緒に考えられる部分とそうでない問題があります。外国語学習も早ければ早い程良いという意見や自国語が満足にできないのに外国語を学ぶのはいかがなものかと主張する説もあります。何れも一理あります。

 月面着陸の際の通訳・同時通訳の神様と言われた國弘正雄氏や辞書編纂や東京外語大学長を務められた英語の神様・岩崎民平先生も英語を始められたのは中学に入ってからでした。

 何事も開始時期もさることながら本人のやる気と努力・継続が一番肝心です。そのやる気と努力継続の場としての早期の学習塾の利用は両面の刃です。それを念頭に置く事が必要です。

 現役同時通訳第一人者の鳥飼玖美子教授(立教大)は、小学校で英語学習が必修になるとどうしても成績優先になり、かえって英語嫌いが増えるのではないかと心配されている。(この項は4月号に続く)

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お遊戯会の思い出

平成23年2月26日(土) 9:30~11:30 AM

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大 寒(だいかん)|2011年2月

 旧暦では立春が新年1月1日。その直前の2月4日までの15日間が大寒に当たります。

 それにしても今年の大寒は全く文字通りの大寒で雪も寒さも大型です。しかしこの寒気も次の春の到来の前触れで、最近は確実に夜明けは早まり日没の時間も遅くなり、春間近を教えてくれます。

 鳥インフル防除のために膨大な数のニハトリの処分が連日報道されています。牛の口蹄病防除のために大量の牛の殺処分の記憶がまだ鮮明なだけに、そしてさらに追い打ちをかけるように霧島山系の大燃岳の噴火による降灰被害も重なり、宮崎県の皆さんの散々のご災難には強く同情を感じております。

 その鳥インフルも大変ですが、人のインフルエンザも大いに心配で気になるところです。全国的には週毎に患者数が倍増している最近です。

 保育園内での発生状況ですが、ポツリポツリといったところです。2週程前からインフル理由での欠席は日に1~3人程。職員の罹患もこれまでに2件。しかし小学校の発生状況はかなり高率のもよう。とにかく何時大発生してもおかしくない状況です。

 そうならないようにめいめい各人十分に健康管理と予防に注意されるようお願いします。

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新春の嬉しいニュース

 先日の漢字かるた第11回新潟県大会の結果1月29日(土)東京開催の全国大会に出場が決まった「うさぎ組の長谷川さんとぱんだ組の鈴木さん」の両名が大活躍してくれました。特に長谷川さんは年少諺の部で優勝する快挙。その同じ日の深夜、サッカーの日本チームがアジア・カップ戦で優勝しました。

 全国大会の「優勝」は久し振り。平成15年に同じく年少諺部門で蕗谷さんが優勝して以来のことで実に8年ぶりの話。それ以来2位の準優勝は何度かあったのですが優勝はずっとご無沙汰でした。

 長谷川さんの園内での直前の練習状況からみて、実力通りが発揮できるならば優勝の可能性大いにありと予想しておりました。

 またその際一緒に練習していた他のお友達も結構いいレベルでした。県大会で同様なレベルで活躍したならば上位入賞間違いない技量。県大会で負けてようやくスイッチが入ったといったところでしょうか。来年大いに頑張ることを期待します。

 【参加保育園】 順不同
 ・割野保育園(新潟市)・竹野町保育園(新潟市)・本成寺保育園(三条市)
 ・きらきら保育園(三条市)・ふじの木保育園(三条市)・赤沢保育園

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『厳家(げんか)に悍虜無(かんりょな)くして慈母(じぼ)に敗子有(はいしあ)り』 

 皆さんは性善説・性悪説という言葉を耳にされたことがおありかと思います。紀元前2~300年ころの古代中国の学者が「人間の本性は善であり、仁や義のこころを先天的に持っているものだとの考えが性善説であり、そうではなく悪のこころが本来であって善のこころは後天的に学習して備わるものだとの説が性悪説」と一般的に理解されております。

 性善説・性悪説は一口に言って理想主義と現実主義との観点の違いの人間観とも言えます。現実的には人間は善と悪の両面と同居し、使い分けながらその狭間で生きているのではないでしょうか。

 そんなわけで性善説の教えは理想主義的でありキレイごとで希望的な教えであり、性悪説は人間のこころの在りようそのままを反映している。はっきり言って分かり易く納得性が高い。

 表題に掲げた何やら難しい文章は性悪説・現実主義を主唱する韓非子(かんぴし)の言葉です。大略次のような意味になります。

 厳家とは家の中のしきたりが厳しい家を指し、そこではしっかりとした頼もしい使用人は居ない。悍は気が強いとか勇ましいさまを言い、虜は使用人のこと。昔は捕虜を奴隷として召し使ったことからきている。

 慈母、情愛あふれる優しい母親の子どもには親離れ出来ない敗子がいるものだとの意。敗とは腐敗の敗でダメな子どものこと。

 厳しさも優しさも程々に使い分けないと問題が起こるということです。人間関係の問題は2000年前も今も変わらないようです。

 あの忌まわしくも狂気な秋葉原の無差別殺人事件、古くは酒鬼薔薇少年殺人生首事件や柏崎の幼女誘拐長期監禁事件などの異常な犯罪が起こる度に、その犯人は一体どんな環境や親の下で生育したのかと知りたくなります。わが子の健全な成長を願うと同時にいかなる最悪であっても、せめてそんな忌まわしい事件の犯人にだけはなって欲しくないとの気持ちが最低の親心ではないでしょうか。

 また韓非子は別に君主がその臣下を導き制するに当たっては二柄(にへい)が肝要であるとも説いている。二柄とは二種類の柄のことでその二種類とは刑・徳を意味し、刑とは罰であり、徳とは恩賞を言います。要はアメとムチが必要であるということです。

 子育て教訓ではないですが、人を動かすには2000年前も現在も変わることなくその両者を使い分けることが大切なのです。

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もういくつ寝ると…|2011年1月

もう いーくつ寝ると お正月  お正月には凧揚げて
  追い羽根ついて遊びましょう  はーやく 来い来い お正月

 子どもの時にはこの歌詞のようにお正月が待ち遠しく感じたものでした。一つ一つ年が増えるのが楽しみに感じたものでそれだけに一年が長く感じられました。

 新しい年を迎えると今年こそはあれをやろう、これをものにしたいとか考えるのではないでしょうか。初詣でなどといって普段神社参りなどしないのに正月になると、何がしかを祈る気持ちになるようです。そしてせいぜい大奮発して百円玉位で神様に今年こそは一億円が当たりますようになんて願うんでしょうか。

 子育て真っ最中の保護者の皆さんはまず何を祈りますか。自分のこともあるかもしれませんが、やはりわが子のことが一番先に頭に浮かべる方が多いのではないでしょうか。それでいいのです。

 12月初めにノーベル賞授賞式が行われ、日本人では根岸英一、鈴木章両教授が化学賞を受賞されました。そしてお二人とも見ていて嬉しくなるような実に鮮やかに綺麗な英語でお礼のスピーチをされました。お二人とも英語国の大学教授を経験されておられるので英語に関しては当然なことではあります。お二人の努力の成果が受賞につながったことはこれまた当然のことです。

 鈴木章教授の場合、生家は北海道の小さな田舎町の理髪店。しかも父が早くに急死、ために母が行商して生活費を確保。その母の頑張る姿に励まされて自身も働きながら旧制中学、新制高校、北大へと進んでいる。言うなれば母子家庭のアルバイト学生だったわけで、決して恵まれた環境どころか戦中・戦後の超ベリバの厳しい条件の中で頑張ったのです。

 新年のわが子への祈りはこの際遠慮なしに目標・ノーベル賞としてはいかがです。子どもの可能性は限りなく広いです。

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テレビ朝日 「そうだったのか! 池上彰の学べるニュース」

12月31日(金)夜7時から 6時間半生放送年跨ぎSP 赤沢保育園が話題に

 テレビ朝日:「そうだったのか! 池上彰の学べるニュース」は毎週水曜日午後8時~52分までの番組;同時間帯ではトップクラスの高視聴率とか。

 池上彰氏は元々NHK出身、NHK時代はニュース解説番組などを担当、判り易いニュース用語等の解説などで知られていた。

 今回、年末SP番組として大晦日31日(金)午後6時から生放送の中で最近話題の「保育所・幼稚園一元化問題」を取り上げ、その中で保育所(園)の説明で日本最初の保育所として紹介されるようです。が、そう詳しくは触れないようです。生放送だけに放送時間は特定できないそうですが、大体午後9時前後と予想されますが、正直、あっと言う間に通り過ぎるかもしれませんとは担当デイレクターの弁。

 明治23年(1890年)6月1日創立の赤沢保育園、平成23年で創立121年を迎えます。創立者赤澤鍾美は元々小学校教師でした。その体験を生かして小学校課程の私学校(静修学校)を開設し、併せて幼児を背負って通学する事情の生徒達のためにその子ども達を別室で保育したのが幼児保育をするきっかけとなり今日に至り、気が付いたら日本最初の保育園だったのです。

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師走・12月・年の暮・かるた大会|2010年12月

 歳月人を待たず、時の経過は少しも休むことなく過ぎ去ります。12月のことを師走(しわす)ということは皆さまご存知の通り。年の暮ともなるとなんとなく慌ただしくなり、日頃落ち着いている先生も年末にはそわそわと落ち着きをなくすのが年の暮12月ということになっております。

 でも考えてみると何でそこに先生がでてくるのか、と疑問を感じて調べてみると、先生は先生でもお坊さん方の先生に当たる偉い坊さん・師僧までが年の暮れのお経を読むために大忙しに街中を走りまわることからとか。また歳の果て(終わり)・歳果てる月、歳はつる月、歳の端(としのはし)がつまって「しはす」からとか、いろいろな説があるようです。最後の説が私には一番もっともらしく思われますが。何れにしろ師走はそれなりの当て字でしょう。皆さんはどの説に共感されますか。

 お正月ともなると「かるた取り」が正月定番行事です。

 赤沢保育園では下の写真のような文字ばかりの俳句のかるたと諺(ことわざ)の2種類を楽しんでおります。

 園内大会は22日(水)、県大会は1月15日(土)に実施のよていです。県大会上位8位以内の方は東京での全国大会に出場できます。がんばりましょう。

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第31回 縄跳び大会

 去る11月26日(金)、園内縄跳び大会を実施致しました。

 この日のためにみんなガンバリました。大会直前の園児達の練習ぶりを見ていると、一日ごとに飛べる回数が増加し飛び方が上達していくのがはっきりとみてとれました。同時に飛ぶことの楽しさ もっと上手になりたいとの意欲を一人一人が持ち始めたところでした。大会の結果その熱は当分持続することでしょう。

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2010・11・6 開催 バザー作品展

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バザー・作品展|2010年11月

 猛暑が去ったばかりなのに天気予報は早や雪の話題です。

 11月は芸術の秋。未来のピカソや広重の卵が今一生懸命に作品制作に励んでおります。どんな仕上がりになりますかはお楽しみ。

 11月6日(土)はバザー・作品展です。食品売りや皆様持寄りの逸品セールもあります。どうぞ多数のご参加で楽しく盛り上げましょう。

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『いも掘り遠足』 無事に楽しく終わりました

 遠足当日の10月8日(金)は本当に素晴らしい快晴に恵まれました。

 いも畑場所は新潟市江南区酒屋町、磐越高速自動車道の南側脇にあり、すぐ近くには同自動車道の「新潟PA」があります。左下写真の地平線の左方向は曽野木方面に当たり、文字通り広々とした広野の一角に位置しています。

 園児の皆さんは日頃街の中にいるわけですから、晴れ渡った秋空の下でいもを掘ったり虫を追いかけたりと素晴らしい思い出となったことでしょう。

 平成4年以来続いている酒屋町でのいも掘り遠足ですが、好運ななことにこれまで一回も悪天候に逢っておりません。天候の変わりやすいこの時節を考えると、ずうっと好天に恵まれたことは奇跡的と言えます。これからも続く事を祈ります。

 今回の反省点として、参加者が予想以上だったためバス席が不足して皆様に窮屈な思いをお願いしたことです。深くお詫びもうしあげます。

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ご存知ですか、園に こんな大型遊具があるんです

 中でポンポン飛び跳ね回って遊ぶ子ども達大人気の運動遊具:商品名エアランド、 10月のお誕生会に使用しました。

 実は15年程前、園長が衝動買いした代物で小型車位の値段でしたがよい買い物でした。今、年に4~5回程使用しています。

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暑さ寒さも彼岸まで|2010年10月

秋の節気に入っても続いた今年の暑さはまた格別でした。

 お彼岸の中日・秋分の日は9月23日でしたが、そこまで連日30度以上の目一杯の暑さが続いたのには驚くやら閉口しました。今年の冬の降雪や寒さは一体どうなるのか気がかりです。

 「いも掘り遠足」当日の10月8日は二十四節気の「白露の入り」にあたり、白露は本格的秋の入り口です。「遠足」当日の好天を祈ります。

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秋は薄着習慣を作る絶好の機会

 これから寒さに向かい気温が低くなります。気温の低下に従って服装もだんだん厚着に変わっていきます。また風邪引きが多くなる季節でもあります。

 風邪にかかりやすい人、また一旦かかると重症になりやす人やあるいは回復の遅い人、と、そうでない人とに結構分かれます。そしてさらに観察すると普段厚着の人ほど風邪をひきやすいようで、反対に普段薄着の人は風邪ひきにも縁が薄い。厚着の人の場合は室温が高くなったり運動すると汗をかき易く、その汗が風邪引きの原因になります。普段薄着の人はなかなか風邪と縁が薄くかかっても軽症に終わる場合が多い。

 以前に厚着の習慣がついていても夏の気候でそれまでの習慣はご破算です。3歳頃まではともかく4~5歳位になると運動量も大幅に増加し、それに従って身体的にも日一日と大人の想像以上に成長変化します。そんな時寒さに向かって厚着を重ねるペースを少しでも遅らせて寒さに慣れるよう努めるのです。重ね着を一日でも遅らせ、一枚でも少なくするのです。

 寒さに向かうこの時期が厚着の習慣から薄着に切換えて丈夫な子どもへと変身する絶好の機会です。厚着習慣の虚弱体質から脱出するのです。汗っかきのお子さん程本来丈夫な体質に恵まれています。また厚着は体の動きを鈍らせます。

 ご承知のように関東地方の場合、冬の気候はほとんど降雨や降雪がなく晴天続きが多い。保育園幼稚園の担任が寒がりのクラスの窓は閉め切りがちが多い。それに反して元気のよい担任の場合は開けっ放なす事が多い。園児の風邪引きは寒がりの担任のクラスの子ども達が目立って多いそうです。閉め切った暖房の利いた部屋の汚れた空気と常に外気に直接触れる機会の多いだけで、それだけでも健康によいようです。

 新潟地方の真冬の気候では窓開けはできませんが、大いに参考になる情報です。薄着への切換えを頑張ってみましょう。ただし、一旦体調が悪い時には無理をしないでください。

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はだし保育と東大生

 猛暑の真っ最中の8月末のある日、東大教養学部理Ⅰに在籍するKI君の訪問を受けた。彼がこの東湊町通3丁目の実家に夏休みで帰省中だったのを知り訪ねてくるようにお願いしたもの。

 彼は石井式漢字教育を平成5年に取り入れて間もなくの平成9年3月赤沢保育園を卒園後、地元の豊照小、二葉中、新潟高校を経て、昨21年4月、上記の東大理Ⅰに見事にストレートに合格入学している。将来は化学分野に進みたいと考えているそうです。

 保育園当時に受けた教育や体験がどこまで将来に影響作用したかどうかを彼の記憶や理解を通して何とか知ることが出来ないかと、一度訊いてみたかったのでした。

 考えてみるまでもなく、保育園時代に受けた体験などを、ましてや受けた教育などを思い出すことができるのかどうかは、極めて難しい話です。

 しかし彼の言によれば、俳句や諺はずっと憶えていたし、今でも幾つかは言えるほどだ。特に諺はどんなにか実際に役だったか計り知れない。そして彼の感覚ではそれにもましてよかったと感謝しているものとして「はだし保育」を通してはだしの習慣を獲得したことが極めてよかったと感謝しているとのこと。

 園内では冬でもはだしである。はだしは体の動きを敏捷にし、そのことは頭脳の活性化を促し、偏平足や外反母趾への可能性を大きく予防する効果もあります。

 平成9年時の卒園生は全部で11名でした。女子で漢字かるたで全国大会で優勝したKAさんもいる。彼女は新潟大の法科に入学しており、石井式漢字教育には強く感謝している。

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白鵬・イチローの大記録

 大相撲9月場所で横綱白鵬が全勝優勝し、同時に連勝記録を62とし、大相撲史上最多連勝記録である双葉山の69連勝に次いで2番目の大記録となった。次の九州場所で連勝が続けば7日目で双葉山の記録と並び8日目にはそれをも超える大記録へと迫ることになる。

 双葉山の連勝記録は昭和11年1月場所から始まった。当時は一場所11日だったが、双葉山人気で次の五月場所は13日となり、その次の場所から現在と同じ15日となった。双葉山の連勝記録は昭和14年1月場所の3日目まで続いて69勝の記録となった。

 また園長の思い出話で恐縮ですが、昭和13年4月に小学校に入学したので、その時はまさにその連勝記録の真っ最中でした。ラジオがようやく普及し始めた頃で、実況中継が何とも不思議なことが出来るものだと話題になっている時にこの連勝が続き、文字通り日本中が双葉山の話題で持ちきりでした。学校から帰ると今日も勝ったかどうかを確かめていたことがはっきりと思い出されます。

 米国野球大リーグのシアトルマリナーズのイチロー選手がシーズン200安打を10年続けております。これも物凄い大記録です。

 世紀の大記録を見守ることが出来る幸せをよく噛みしめましょう。

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夏の思い出アルバム|2010年9月

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処暑(しょしょ)

 今年の暦によると去る8月3日が立秋、23日から9月7日までが処暑となって
いる。処暑とは暑さも落ち着き処を見つけてそれほどひどい暑さではないと
いうことになっているのですが、昨今の暑さは全国的に処暑どころではない
猛暑続き、連日各所で36度から38度などという数字が報じられている。
とはいえコオロギの鳴き声も聞こえるようになりました。処暑が終わると
白露(はくろ)秋分と季節は確実に秋に入ります。

 平成になってから現在の保育の仕事に携わるようになった現園長ですが、
昭和一杯までは新潟を離れて電機製造関係の仕事に従事しておりました。
猛暑が続くと40年ほど以前、仕事でインドに滞在して体験した暑さを
思い出すのです。

 1971年(昭46年)3月から5月にかけて、当時勤務した会社の提携先の
インドの某社に、ある電機部品の製造工程を立ち上げるために現地に赴いた
のだった。滞在先はインド第一の近代都市ボンベイ(現ムンバイ)だった。
インド洋に面した海岸都市のムンバイの3月~5月の気候は丁度今頃の暑い
新潟の気候とそっくり同じで、連日35度前後だった。海に面しているので
40度以上はないが湿度は高く日本の暑さと同様だった。

 土日の休日には各所見物のため、特に趣味の仏教遺跡を回遊することが
ねらいでインド出張を希望したのでせっせと出歩いた。大きな牛のお乳の
ように垂れ下がったインド半島の中央部デカン高原を旅した時に体験した
暑さは格別だった。3日の日程を確保して冷房なしの自動車でもうもうと
砂煙りを巻き上げての1000キロ以上の旅でした。

 デカン高原の旅の目的地は2000年以上前の仏教ヒンズー教遺跡群
アジャンター・エローラ訪問がねらい。ボンベイ郊外を過ぎるとすぐに
高度が上がりデカン高原への上りにさしかかる。道路端には腐敗のため象の
ように大きく膨らんだ牛の死骸が時々無造作に転がっているのにはびっくり。
車の高度が上がるにつれて気温もどんどん上がり、あっという間に40度を
超えて500m程の高原を上がりきったあたりでは45度前後を表示して
落ち着いた。温度計はアルコール温度計を日本から持参した。

 冷房装置のない車の中の温度は窓を開けっ放しにして走っている間は
気温の45度前後だが停車すると、車体が焼けているのですぐに50度以上に
上昇する。

 そんな凄まじい暑さのなかを丸一日400キロ前後走って日本の奈良の
ような由緒ある古都オーランガバード市に到着して二泊した。宿泊した
ホテルは町一番のホテルだったが当時の客室には冷房設備がまだなかった。
客室の窓辺やベランダにはリスが人を警戒する風もなくちょろちょろと
遊んでいて、見た目には涼しげだがとにかく暑かった。深夜になっても
気温は依然として44~5度。ベッドの上では天井から直径1m程の三枚翼の
扇風機がヘリコプターのように回りっ放しだ。最初の晩はその下では
ほとんど眠れなかった。

 翌日、目的の遺跡群を訪問を済ませて同じホテルでの宿泊、疲れと慣れの
せいか二泊目はけっこう眠れた。三日目の帰路、高原を降りると、もう暑さの
ため狂ってしまったのではと思っていた温度計だったが、再び37度辺りを三日
振りに無事に示し始めた。

 人間は何日も体温以上の環境の中でも生きていけるものだと感心。現地の
人たちはそんな中で生れ育ち生活しているのだから当然の話なのだが‥。
そんな自然環境の中で確実に低温を示すのは人の体温なのだ。人肌は温かい
ものではなく気温よりもヒヤリと冷たいものなのだ。そんなことをこの旅から
学んだのでした。

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