スフィンクスの謎と幼児の顔面制動ブレーキ|2013年11月

 上記の写真はエジプトの首都カイロ市郊外のスフィンクス像とピラミッドですが、遥か離れた私ども日本人にとってもおなじみです。

 人間の女性の顔と乳房を持ち胴体はライオンのスフィンクスは、ご当地の神話によるとその前を通る旅人に謎(なぞ)を問いかけてそれが解けなかった旅人を次々に食い殺したとのこと。

 その謎とは「朝は四本足、昼になると二本足、夜は三本足となるものは何か?」です。皆さん分りますか。答えられなければ食い殺されたのです。

 その答えは「人間」です。人は初めは手をつかってはいはいしながら動きます。やがて二本足で立ちあがり、晩年は杖の助けを借り三本足となり、一生を終るということです。

 大略生後五カ月前後に寝返りが出来るようになりやがてはいはいの時期を経て一歳前後でよちよち歩きができるようなる。畳敷きの場合、フトンの上から幼児ははいはいして広い床の上を動き回る事が出来るが最近はフローリング床が多くなり、しかもベビーベッドの場合じかに広い床に行けなくなった。そのためもあってか近頃の子どもは、はいはいの時期がほとんどないまま歩き始める。

 しかし実はその はいはいの時期に胸や腕の筋肉が発達し腕で上体を支える訓練になるのです。その結果上体バランスをとるためすぐに腕が出るようになる。 が、最近の幼児は転んだとき手が出なくて顔面をじかにぶつけて顔を大きく損傷するケースが増えているとのこと。はいはいの時期はそれなりの大切な意味あるコースなのです。それを飛び越えていきなり歩いたと言って一概に喜ぶことは早計、スフィンクスの謎のように人の一生にはいはいは当然必要なコースであることを思い出して下さい。

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 まずいつもの「朝の歌」を元気な声で歌う。次に漢字絵本「月へ行った兎」を漢字カード「月!、兎!、花!」を子ども達の元気な読み声と共に読み聞かせ。続いて準備本番の『切り紙あそび』。保護者の方も一緒に切ったり折ったりして作り上げた「冠」かぶって記念撮影。すてきな時間でした。参観の方々のご協力有難うございました。

 紙しばいや写真カードを使って、食べ物には「赤の仲間(骨や筋肉を作るもの)」、「黄色の仲間(エネルギーになるもの)」、「緑の仲間(身体の調子を整えるもの)」がある事を学びました。これから寒くなりますが、バランスよく食べて、病気にならずに元気に過ごして欲しいと思います。

 マルコ先生の『英語あそび』の時間をみていただきました。4月からスタートですがとても上手になりました。マルコ先生やお友達との英語での挨拶などの掛け合いなどでしたが誇らしげな14人でした。

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 今年恒例の年中行事「作品展&バザー」は来る11月9日(土)開催を予定しております。今、子ども達は作品展の準備に大忙し。どんな風に仕上がりますかお楽しみ。

 今年のバザー食品関係業者さんに変更があります。
お団子が餅菓子老舗の「田中屋」さんに、巻きずしが西区内野町の「瀧ずし」さん、そして新しく本町12出身の若手パン屋さん西区小針に出店している「ドリームハウス」さんが加わりました。これまたお楽しみ。

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オズカス|2013年10月

 叔父(おじ)は父母の弟のことだが、中部・東北地方では単に次男以下をそう呼んでもいる。オズはオジの東北なまり、かすは「残りかす」のこと、次男以下を軽視する意味がこもっている。

 太宰治(だざいおさむ)青森県出身の作家ですが彼の作品「津軽」の中で、自身が六男坊だった太宰は家の跡継ぎが約束された長男・惣領でなかっただけに特別な思いで「オズカス」についての記述があり興味深い。

 しかし、前回9月号園だよりの「惣領の甚六」の説明で触れたように将来の家の跡継ぎ生活が約束され家の中で他の兄弟よりも特別に手厚く育てられたからといって決してそれがその子の人間形成の将来にプラスに働くかというと必ずしもそうでないところが意味深い。それどころか手厚い環境周囲の保護がむしろ発達の妨げになっていることが多い。

 「オズカス」として生を受けた子どもは幼児期から自分の将来は自分で切り開かなければとの気持ちが兄姉達よりも常に働いている。さらに兄姉達との中で自己主張する努力が常に無意識に働いている。その事が兄姉達や周囲の人達の心の動きに気配りすることが過保護に囲まれた甚六よりもいつの間にかしっかりと身についていく。。何が有利に作用するか不利に影響するかは一律単純に割り切れないところが子育ての問題の悩ましい個所。

 子育て方法の是非や結果は簡単に結論はできません。しかし言えることは子どもは環境と直接保護者の影響を鏡のように反映して「育てたように育つ」と云うこと。保護者が神経質に細かく気配りすれば子どもはその気配りを一々待ちうけるようになる。

 子育て一人目二人目は親も初心者、3人目で経験者、5人目6人目となると余裕が持てるのですが。

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いもほり遠足

 9月27日(金)、天候に恵まれて予定どおり「いも掘り遠足」を無事に終わる事ができました。 おいも「紅あづま」の味はいかがでした。自分達の手で収穫しただけに一味もふた味も美味しいのでは。

 平成4年から始めた「いも掘り遠足」、今回で22回目。全く好運なことに悪天候による予定変更がまだありません。季節の変動するこの時期、本当にありがたいことです。来年も晴れますように‥‥。

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 快晴の9月18日(水)、うさぎ・ぱんだ・ぞう組は水族館「マリンピア日本海」を見学訪問しました。

 トドの大きさ迫力に圧倒恐怖したり、ペンギンのよちよち歩きに笑ったり、ヒトデにさわったり、イルカショウを眺めたりと楽しい一日でした。

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惣領の甚六(そうりょうのじんろく)|2013年9月

 長男・長女は大事に育てられたので、その弟妹よりもお人好しでおろかだということ。(広辞苑)

 惣領とは人々の先頭に立って物事をまとめる地位にある人のことで一家にあっては家長戸主を指す。第二次大戦後までは日本の家の家長の権限は絶対でした。そして家の財産や地位職業を継ぐ者は長男か長女と決まっており、長男長女が死亡等の理由で継げない場合にのみ初めて次子以下にその権利の順番が廻ってきた。最初に生れた子どもを特に男子の場合は後継ぎ筆頭の意味で惣領と呼んだ。

 第二次世界大戦終了後、現在のような日本の国の基本的あり方を決める憲法を始めその他の法律や諸制度が大幅に民主主義的な観点に見直され改正されたことはご存知の通り。

 そのような嘗ての旧制度時代の一家にあっては家の後継ぎが約束された最初の子どもの待遇は他の弟妹とは比較にならないほど特別だった。最初の子どもはそんなわけで一家の希望と期待を背負って大切に育てられた。その結果ちやほやされた環境の中で育った子どもが力強く自立心旺盛で逞しく育っていくだろうか。一般に実際はそれとは裏腹真反対になりやすい成り行きになっている。

 常に周囲が自分を見守り手をかしてくれる、それどころか物事をやりやすいように立派にお膳立てしてくれる環境が平常当たり前の状態だとしたら、自らの創意工夫や努力を積み重ねたり不便に耐える根性、雨にも負けず嵐にも負けずに立ち向かう逞しい人になるだろうか。その多くはその反対に陥り易い。

 結果、第一子に冠せられる名称が「惣領の甚六」。甚六とは、甚だしくろくでもない人とはこじつけもいいところだが、それはともかく箸にも棒にもかからないような手に負えない人間になる可能性が大きい。もちろん第一子の多くがそうなることは決してない。 ここで気を付けていただきたいことは近年のように一家庭の子ども数が 一人か二人が大多数になってきたことだ。別の子育て警句に末っ子はどうしても甘えん坊になりがちといわれている。ということは最近の子どもの大半は惣領か末っ子になっているということだ。

 近年中高年のニートや引きこもりが男女ともに多くなってきているようだ。とうに亡くなった親の年金で生活 していた50代60代の人々の問題記事が目に入る。 新潟県内でも女子小学生を誘拐して9年間も監禁した男もニートで老母の稼ぎだけで生活していたという事件もあった。ニートや引きこもりは社会の目に触れにくい存在だけに 以前よりも実際に増えているのかどうかは分かりにくいが、親としてはこれだけにはなってもらいたくないのでは。

 子育ては大変だ。大変でもやりがい頑張りがいのあることは他の何よりも大きいのではないのでは。

 子育て後、上手に子離れ親ばなれしていくこともさらに大切だ。子ども自身に自立心を持ち親への依頼心を成長に従って少なくしていくこと、これの失敗がニートや引きこもりに至る要因の一つ。

 愛情や手数を子どもにかけることは重要な親の務め。親子の関係は生ある限り続く。それをいつまでども続けることは出来ないのが現実だ。

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年齢に「つ」が付くときに立腰・返事 挨拶をする・履物を揃える|2013年8月

 年齢に「つ」が付くときに立腰・返事、挨拶をする・履物を揃える

 年齢の数え方で「つ」の付く年齢、ひとつ、ふたつ‥やっつ、ここのつ、と9歳までが子どもの時期、この「つ」のつく年齢時期が人として最も基本的なことを身につける大切な時期、「三つ子の魂百までも」の魂が育つ時なのです。女子の場合この時期を過ぎると程なく身体成長の証しの初潮を迎えます。男も女もそれぞれ他人とは違う自分に気付きます。「個」の意識が芽生えるのです。そしてやがて子ども時期を通過し、これまでとは違った「こころ」が形成され歩み始めます。

 九州・福岡市城南区に仁愛(じんあい)保育園という保育園があります。その仁愛保育園の保育教育方針として次の四つの目標を掲げております。

  1. 常に腰骨を立てる人間に
  2. あいさつは自分から先に
  3. 返事は「ハイ」とはっきりとする
  4. 履物はそろえ、イスはいれよう
 園長の石橋富知子先生は保育園経営に関わってから園の方針として何か中心となる柱を探し求められました。

 石橋先生は 昭和44年、当時神戸大学教育学部教授・教育学者の森信三先生の研修を受け、森先生のこの四つの教え、方法に深く感銘を受け、仁愛保育園の保育基本方針に取り入れ実践を重ねました。

 その結果、園児達は劇的に変わりました。立腰は姿勢を正すことで集中心が高まり、挨拶返事は礼儀正しさが身につき、履物イスの始末は物事のけじめを教えてくれます。 園児達の素晴らしい変化ぶりは評判となり全国から見学者が文字通り行列をなして訪れるのです。

 赤沢保育園では平成7年に同園を訪問、園児達の動きに深く感銘を受け、良いことは真似でもよいとご了解の元に採り入れてる次第です。

 (この件はまた別な機会で触れたいと思います。森信三先生は平成4年11月97歳で逝去されました。)

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 今年も7月11・12・17・18日の4日間、JSSさんのバス送迎で予定通り指導を受けました。

 年中児にとってプールレッスンは初体験だけに初日は緊張がありあり。顔を水に付ける、ウキを背に水の中を歩く、ばた足の練習といった基礎的な体験の繰り返しですが、4日目になると、子ども達の表情には何かを学び身につけたという自信が感じられました。

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赤沢保育園 スペシャル|2013年7月

 年間恒例行事の「運動会」は6月29日(土)午前9時、豊照小学校室内体育館で園児保護者の皆様のご参加をいただいて予定通り開催。

 全園児の入場行進・園児代表宣誓・赤沢保育園スペシャルエールに続いて各種競争・紅白球入れ・園児保護者の綱引き等など、最後は恒例の3歳以上園児全員のそして保護者職員による紅白リレー競走、無事にケガや事故もなく楽しく終了することが出来ました。中でもこの6月に入園したばかりの最年少園児8カ月のH.A.さん「0歳のはいはい競争」で11カ月の先輩そっちのけに少しも物おじしないでさっさとゴールインする元気ぶりにはビックリ。

 毎年劇的にレースが盛り上がる紅白リレー、目立って速い走者が勢い余ってカーブで転倒したりと今年も何度か大きな見せ場で歓声を盛り上げてくれました。遅れを取り返そうと泣き顔で必死に走る子、あきらめ顔でマイペースで頑張る子とそれぞれです。

 運動会で普段見慣れているわが子とは別の一面を発見される方も多いのではないでしょうか。親の前や家庭内では見せない外での顔がみられるのもこんな機会です。

 話は「あかざわほいくえんスペシャル・エール」のことですが、30年程前に園の歴史調査目的のため筑波大学の学生の来訪があり、その際、学生さん達から教わったとのことです。ネットでしらべると元々はドイツのビアホールが発祥とかとの説があるようですが、意味由来の定説はないようです。

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 東北地方も含めて新潟地方の今年の梅雨は現在のところ降雨量は少なく空梅雨状態。水不足のため田植えの出来ない水田も多いよう困ったことです。それでも梅雨明け予報は下旬だそうです。

 いずれにしろこれから猛暑のシーズン。中旬から4~5歳児はジャンボプール、園内での水遊びもはじまります。体調整備をお願いします。

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祝 赤沢保育園 創立百二十三回きねんび|2013年6月

 明治23年(1890)6月1日、赤沢保育園は新潟市礎町4丁目に誕生した。この機会に創立者赤澤鍾美と創立のいきさつについて少し詳しく説明をさせていただく。

 創立者赤澤鍾美(あつとみ)は戸籍によると元治元年(1864)10月16日新潟町に出生、名前は始め庄吉と称した。戸籍からは庄吉の幼少は家庭的には必ずしも恵まれてなかったことが分る。幼(?)にして他家に養子として入りその後解消している、その年月の記録がないため何歳の時かは不明。また戸籍には両親兄弟の記載がなく37歳年長の養祖母とその娘達(いとこ)と暮らしていたことが記載から判る。

 明治11年4月、鍾美は新潟町公立小学校臨時教員採用試験に合格、小学校教員として四番堀小学校に就職する。鍾美13歳の時のこと。

明治新政府発足当時の教育制度について若干説明すると:
 明治6年、義務教育制度制定、全国に小学校を設置開校を決める。しかしその実施には教場と教員の確保がまず問題となった。教場の多くは寺院を利用した。教員は養成確保のため師範学校をいち早く開設したがその卒業生が全小学校に配置されるまでの間、資格認定採用試験による臨時教員制度を設け、その試験合格者をもって教員に充てた。その受験可能年齢が旧年齢の15歳、15歳は武家時代の元服の年齢。元服(げんぷく)一人前の大人とみなした年齢、当時は生れるとすぐ1歳と数えた旧年齢の数え方。今なら十月生まれの鍾美は13歳、恐らく漢文づくめの試験問題を恵まれぬ家庭状況でよくぞ合格したものだと感想する。

 明治10年代の新潟町の小学校数は5校。そして当時から校名が変わらないのは鏡淵と豊照。鏡淵は西掘通3番町の超願寺に所在し校名は寺裏手に鏡淵という名の池がありその名に由来。

 場所と校名が明治初年から変わらないのは豊照だけ。豊照は学校所在地近くにあった豊照稲荷神社に因んだもの。当時の新潟町の範囲は信濃川左岸(海側)の白山神社下流域で人口は明治22年市制施行時で約4万人だった。

 明治10年代後半になると師範学校卒業の有資格教師が各校に配属され始まると開拓時代に苦労活躍した臨時教員は次々と整理リストラされた。明治時代は現在よりも遥かに厳しかった。明治19年豊照小学校に勤務の鍾美は東厩島町(現保育園東湊町から西南方約300m程の地点)に住居した。

 明治23年、リストラの嵐がまともに鍾美を襲った。それまで月額9円~5円程だった給与が一挙に僅か27銭に減額された。当時の臨時教員は毎年一年契約今話題の契約社員だった。そこで鍾美は退職し小中学校課程の塾・静修学校を創立し依頼を受けて幼児保育も始めた…、がこれまでの定説だった。近年、新潟大元教授F氏の在職中の調査で鍾美の教員の在籍は明治26年まで鏡渕校所属だった記録を発見。同時に給料が前述のように激減したことも判った。明治20年当時の物価は米一俵(60㎏)約2円。調査されたF元教授は鍾美の学校開校は26年以降ではないかと仮説を唱えた。それも一理あるが給与が日当額程度に減額されたことは非常勤の予備軍に配置されたと容易に想定できる。それだけでは生活不可能である。

 学校物事の開始は4月が常識だ。創立記念日が6月であることにはそれなりの理由があった。いつかはリストラと予想して開塾を念頭に在職中からせっせと自宅指導の生徒を取っていたことが容易に想像される。そして4月開校を目指していた。

 昭和9年刊行の新潟市編纂の「新潟市史」によると、明治23年4月3日鍾美住居隣町の住吉町から出火、全焼戸数270戸の大火となり鍾美宅も焼失、4月開校は不可能となった。鍾美の教え子達の開校を願う熱意から隣町の礎町4丁目に教場を兼ねる居宅を得て6月開校となった。

 当時の小学校入学事情は現在とは大幅に異なる。まず義務教育といっても有料で、これは大正10年(1921)まで続いた。明治期の一般庶民の暮らしは今では想像出来ないほど貧しくその日暮らし家庭が多かった。貧乏人の子沢山、多くの家庭が子どもといえども6~8歳から食費倹約口減らしのため他家に下働きや雑事手伝いとして出した。小学校入学は庶民にとっては夢のまた夢、明治初期の小学校入学率は2割程度だった。

 礎町に開校した学校を「静修(せいしゅう)学校」と命名した。子守りしている生徒の赤ん坊を預り世話をした。その保育は鍾美の養祖母と従姉達が当った。そんな経営努力もあって静修学校は繁盛し手狭となり明治26年本町7番町に発展移転した。同年臨時教員籍も完全に離れた鍾美はそれまでの庄吉という名前を鍾美に改め戸籍に登記した。鍾は集めると同義、美は将来ある若者という意味もある。

 本町移転後の静修学校はさらに人気が高まり本町校舎も程なく手狭となった。そこで在学生や卒業生その他有志が協力して資金を集め、明治36年、保育室を含む校舎を東湊町に建設、鍾美に贈った。現在地より50m程西の位置。

 感激した鍾美はそれまで付属業務としてとらえていた保育業務に対して「守孤扶独幼稚児保議会・しゅこふどくようちじほごかい」と命名して本格的に取り組む決意をこめた。現在の保育園の法人名である。その意味は、保育に孤(めぐまれない)の子ども、独は独り親の幼稚児を保護する会と命名した。養祖母に育てられ恵まれなかった鍾美自身の幼少時の思いをこめたものと推定される。後年昭和23年児童福祉法の保育所の定義に通ずる点が多く、その後の研究者の注目を集めた。

 大正8年7月、またまた東湊町1に87戸焼失の大火発生、赤沢校舎も被災した。しかし再び卒在校園生が資金を集めて現在地に建築し鍾美に贈ったのでした。

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遠足 スナップ あれこれ

 例年遠足の日取りは5月の第3~4週頃。今年はバス確保の都合で連休明け早々の10日実施。そのせいかいつも他の何園かと鉢合わせで混雑する亀田公園、今回は赤沢だけの貸し切り状態。天候にも恵まれ楽しく終了することができました。

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新緑の美しい季節になりました|2013年5月

 タケノコや蕗、山菜の美味しい時季になりました。タケノコ(筍)の漢字は竹かんむりに旬(じゅん)と書きます。小さなタケノコが十日程で立派な竹になるからでしょうか。

 緑濃いこの季節になるとしゃきしゃきとした歯触りのウコギの新葉の品のよい独特な香りのお浸しを懐かしく思い出します。

 ウコギ(五加木)といってもご存知の方は少ないと思いますが、山形県米沢市・置賜地方では家々の生け垣として普通に植えられている丈の低い木です。先々代園長が庭に植えてその新葉の味を楽しんだのでしたが、あまり好まなかった先代園長になったらその木は消えてしまって今はない。

 ウコギは漢方薬として中国渡来のウコギ科の植物ですが、米沢地方に多くあるのは上杉藩の知将・直江兼続が栽培を奨励したのが始まりです。

 米沢藩は上杉家が会津120万石から関ヶ原の合戦以後米沢15万石に格下げされたが、その際、家臣を一人もリストラしないでひたすら倹約財政に努め、その一策として食糧にもなるウコギの植樹を奨励した。

 上品な食感の高級食材としてウコギの新芽・葉はタケノコなどとの切り合いやおひたしをはじめ天ぷらなど、様々な料理法があります。

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 赤沢では園児に石井式漢字絵本の読み聞かせを実施しております。東京渋谷区の石井式本社に寄せられたお手紙をご紹介します。(原文のまま)

 現在息子は6歳、小学校に通っています。 私達は息子が私のお腹の中にいるときに夫の仕事の都合でアメリカに赴任することになり、その為、息子はアメリカで生まれました。以来ずっとここ、アメリカ東海岸に住んでいます。

 州政府からの決まりで、年に2回全小学校一斉テストがあるのですが、何と息子の査定結果が99%だったのです。「これは99点という意味ではなくて、テストを受けた全員の中の上位1%に位置していると言う意味です。」と言う事を担任の先生と面談をしたときに言われて驚きました「うちの子すごい!天才っ!?」と思ってしまいました。(親ばかですね。笑)

 また、クラスのリーディング(読み)の時間にも、レベルごとに分かれて読んでいるそうなんですが、息子のグループは一番上でレベルも1つ上の学年の学習教材を既に使用しているそうです。英語なのに、我が息子ながらすごいなと思わずにはいられませんでした。

 家では英語の本と、日本語の本をほぼ毎日読んでいます。きっとこの読み聞かせが良かったのだなと思いました。  思い起こせば初めて読み聞かせをしたのが石井式の「みーちゃんどこ?」でした。息子が1歳半のときです。あの頃は本を読もうとしても、本を投げたり、叩いたり、破いたりして、なかなか読み始める事が出来ませんでした。でも、今では本大好きです。感慨深いものがありますね。 石井式では毎日10分取り組むことを目標にしていましたが、全然出来ていないときもありました。それでも、月一回の通信教育の先生とのミーティングでなんとか取り繕って、また新たに一ヶ月間、新しい本で読み始める。決して真面目にキチンとやってきたわけではありません。が、何年も続けた事のほうが大きい成果として現れたようですね。今まで支えてくださった通信教育の先生には感謝です。そもそもどうして幼児に漢字教育を始めようと思ったのかには私なりの体験があったからです。

 私の知り合いで子供のときに海外生活をしていた同僚をこの目で何人も見てきましたが、現地の日本人学校に通っていたにも関わらず、日本語を話したり、読んだりすることが苦手だったり、書くのにも四苦八苦していました。でも、皆さん素敵な社会人で仕事もとても良く出来るんですけれどね‥‥。「日本語は頭の善し悪しに関わらず、日本人学校に行った行かないに関わらず、自身で身につけないといけないものなのだな。」と思ったものです。日本人学校に通っていても10歳を境に通わなくなったり、日本語の勉強を止めてしまう人もいると言う事を、息子が生まれてから聞きました。理由は現地、英語での勉強も大変になってくる時期であり、子供への負担が増えたからです。  このような理由から、息子が生まれてから、幼児からでも漢字が学べる、もしくは何か日本語を学べる方法はないかと考え始めていました。すると夫が、石井式のことを教えてくれたんです。以来4年半、ほそぼそと続けてきました。今までの石井式の漢字絵本と漢字カード、CDをこれからも使ってなんとか10歳までは、復習を続けて行きたいと思っています。

 太陽系が大好きな息子は将来は天文学学者になりたいそうです。夢を叶えられるよう、私も少しでも協力出来たらと思っています。

 2013年4月  岡口 真咲美  アメリカ東海岸デラウェア州在住

 (岡口さんは東京八王子市ご出身。将来米国に永住予定だそうで、子どもに本物の日本語をと石井式を選ばれたのです。)

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園庭の梅がようやく咲き始めました|2013年4月

 この冬の初めは暖冬予想でしたが県全体ではどうだったんでしょうか。新潟市の降雪量は前年と比較すると確実に少雪でした。除雪を例にとると、今冬は園舎前や駐車場の除雪はほとんどやることなしに春になりました。 しかし長岡や魚沼地方の降雪は明らかに数年来の豪雪で浦佐や湯沢辺りの2月頃の車窓風景は近来にない雪景色でした。越後三山の山なみの青みを帯びた輝きは雪深さを教えてくれます。

 しかし、最近の新潟の気温の低さはどうでしょう。文部省唱歌「早春賦」の”春は名のみの 風の寒さよ‥” を口ずさみたくなります。東京方面では桜の花も散り出しているのに‥。例年3月中旬には開花する園庭の梅もようやくほころびはじめました。鹿児島・熊本産のタケノコが市場に並び始めました。

 寒暖の差の大きい今の季節、消化器官の不調(吐きもどしや下痢)や微熱をともなったカゼようの疾患がはやっております。新学期を控えての今の時期、体調にはくれぐれもご注意ください。

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平成25年度入園式(今後の入園について)

 新年度の入園式は4月6日(土)実施を予定しております。

 本年度の入園式参加は15名の予定。例年入園式の参加は当年の4月入園児の他に前年の4月以降今年の3月までに途中入園された方にも参加していただいております。新年度の園児数は定員に対して15%増の状態で出発いたします。これは園にとっては大変ありがたいことなのですが、設備や保育士能力もあり今後の入園受け入れがあと僅かしか出来ないという問題が生じます。近年の中途入園数は大体10名前後ですが現状ではあと数名しか受け入れることができません。

 ご承知のように中央区の下町地域は、住人減少の影響で小・中学校の統合問題が進んでおります。 しかし、中央区の特に新潟島地域の保育園事情は市の待機児童ゼロ目標とは別に実情は厳しい状況にあることをご承知下さい。勝手なお話で恐縮ですが入園に関しては出来るだけ早めにご相談下さるようお願いします。

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平成24年度第122回卒園式

 3月23日(土)、平成24年度第122回卒園式を無事に予定通り終了致しました。

 卒園児数は男子7名女子6名の計13名。卒園児の内訳は、在園期間が最も長かったO.Mさんが6年5月。短い人で3年丁度の方が4名。平均在期間は4年4月となります。

 小学校が6年、中学高校が各3年、大学で4年の期間と比較すると保育園での4年4月の在園期間の長さは結構な期間になります。が、卒園後保育園生活の細かい事はどこまで記憶しているでしょうか。各年齢組当時の写真を並べてみました。

 卒園の皆さんに将来の希望・職業を尋ねてみますと:

学校の先生・看護師・保育士がいずれも女子で各1名、ケーキ屋・お菓子屋・スイーツ屋・コーヒー屋さんが男女合わせて5名、野球・サッカー選手が何れも男子で4名、変わったところで仮面ライダーが1名でした。

 以前よく目にした新幹線の運転手や警官・消防士などは見当たりませんでした。

 元気で明るい一年生になって下さい。
そして時々元気な姿を見せて下さい。まってますよ!

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什の掟(じゅうのおきて)|2013年2月

 昨年末、はからずも隣県福島県会津若松市を訪れました。
 会津若松市は隣県でもあり新潟市民にっとって親しい思いが少なからずあります。新潟市の小学校が修学旅行で訪れる他県都市としては会津若松市が圧倒的に多い。また会津若松市の小学校も同様に修学旅行先として新潟市を親しく選定されているようです。
 今年のNHK大河ドラマが会津若松市と縁のある話で驚きました。

 実はかねがね会津若松市というよりも旧会津藩時代の教育事情を一度話題にして皆さんと考えたいと思っておりました。
 会津地方はご存知の越後の上杉氏が治めたこともあったが徳川時代となってからは徳川二代将軍秀忠の子、保科正之ほしなまさゆきが藩主となり徳川御三家尾張・紀州・水戸家に次ぐ№4とも擬せられる格式ある名門。

 三代将軍徳川家光の異母弟にあたる会津藩祖保科正之は、母親が秀忠の正室でなかったため幼少時は不遇で信濃高遠三万石の小藩保科家の養子となった。保科家は将軍の息子正之に惜しみなく帝王学を学ばせた。その不遇時代の勉学が正之の人柄を大きく育てた。長じて兄三代将軍家光に仕えると正之の謙虚な人柄・優れた学識才能に家光はすっかり感銘し正之を補佐役として重用し会津藩主に任じ、ついには四代将軍家綱の後見を托した。

 家光・家綱と二代の将軍の補佐役を務めながら会津藩主となった保科正之は会津藩の治世に関しても数々の優れた業績基礎を築いた。中でも教育を重視奨励し後年上級藩士の子弟に必ず入学を義務付けた藩校制度(日新館)の基礎を築いた。

 会津藩士の子弟は十歳になると藩校日新館に入学、授業は朝8時から始まり文字通り文武両道に励んだ。生徒数は1000人以上を数えたようだ。戊辰戦争で会津若松城落城とともに自刃した有名な白虎隊の少年戦士達も当然日新館出身だ。

 日新館に入学する前の六歳から九歳までの子ども達は大体10人程がまとまって什(じゅう)と呼ぶグループとなり、寺子屋や什の家庭などでそれぞれ遊びや学習をした。その什にはその決まりとして「什の掟」があった。それが冒頭の「什の掟」である。「什の掟」は什がいくつもあったので必ずしも同じではなかったようで、とくに最後の婦人と会話に関しては規定しない什もあったようだ。(cf:日新館HP)

 最後の結語の「ならぬものはならぬものです」が明快である。一見頑固で乱暴な押さえつける表現に響くがわかりやすい。今学校での体罰問題が大きな関心を集めている。体罰ではなく指導であり愛の鞭であると言い訳してこれまで見過してきた。教育とは賢く生きる方法を教える場所である、その教育のやり方が死に結びつくとはとんでもないことであり、まさにあっては「ならぬこと」 だ。

 幼少時は基本的な物事の善悪の区別を理屈抜きにしっかりと教え伝え憶えねばならない時期だ。それを確実に教えることが親の務めであり大人としての義務・役割りである。動物の世界で例をとると、親はまず危険と安全を必死にわが子に教える。何が食べられるか食べられないかを徹底的に教える。一旦間違えたら死に至るのだ。また他の襲撃を避け生延びるための必死の学習である。そこで屁理屈や疑問のやり取りが入り込む余地はない。ならぬことはならぬのだ。  自由にものが言える現在はとにかく情報が多すぎて事の本質が見え難くなっている。特にネット上では姿が直接他に目立たないためその傾向が強く無責任な回答や対応が幅をきかせている。

 著書「国家の品格」 で数年前一世の話題注目を集めた藤原正彦氏もこの「什の掟」に言及し、最後の婦人との会話の章を除けば現在でも重要な教えであると評価されている。

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 上記はご存知「小倉百人一首」の中の一首。
 かるたと言えばやはり百人一首ですね。石井式新潟県大会では俳句・諺だけにしておりますが、石井式大会では百人一首も正式種目に入っているのです。新潟県大会では気軽に出来るだけ多くの人に参加していただきたくてあえて諺・俳句の二種目にしぼっております。
 ご承知のように今回は全国大会が開催できませんでした。東京地区一帯の参加園のご意見やお考えなど何かと足並みがそろわなくて残念な状態の結果です。来年は何とかまとめてぜひ開催をと心掛けております。
 来年の県大会は1月11日(土)会場は本年同様ユニゾンプラザで手配し、全国大会は1月26日(土)にこれまで同様のスカイツリー間近かの墨田区区民会館を確保致しております。
 実は先週末、東京・神奈川・山梨の三地域の数園の石井式大会が川崎市内の幼稚園で開催があり、それを観戦してまいりました。俳句・諺部門に関しては新潟県はなんら遜色ありませんが、百人一首部門があり、じっくりと観戦してまいりました。そして詠みあげられる百人一首の数々を耳にして改めて日本語の美しさ素晴らしさにつくづくと聴き惚れてしまいました。

 表や写真は去る1月13日開催の第13回漢字かるた新潟県大会の参加状況や各園の入賞状況や結果です。なお入賞者の実名は省略させていただきましたがご了承ください。
 三条市の保育園は人数も「かるた」に対する熱意も赤沢保育園よりも圧倒的に高いため残念ながらそれがはっきり成績に反映致しました。

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新年明けましておめでとうございます|2013年1月

 2012年は保育園にとっては大きな問題もなく、25日に新潟大生のサンタクロースを迎えて年末最後の行事クリスマスを楽しく終わることができました。

 右の写真下は新大生サンタさんを囲んでのひよこ組さんです。

 サンタ役の一人が何とポップダンスのロボットダンスを演じてくれました。身体の動きをロボットのようにカキンカキンとぎくしゃくした動きで首や手足を動かします。タダそれだけですが、何とも言えない楽しい動きに子ども達や職員達もそのパフォーマンス、大いに楽しませてもらいました。

 寒さに向かってます。その後感染性胃腸炎やインフル等の目だったブレーク発生流行はありませんがこれからがシーズンです。十分に気を付けて発生防止に努められることをくれぐれもお願い致します。

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 保育園の玄関と遊戯室との出入口扉の上の空間を利用して可愛い人形を多数組合せて(妖精のくにのたより・はる・なつ・あき・ふゆ)と題した人形飾りにお気付きかと思います。

 人形の製作者の阿部伸江さん、元々埼玉県川越市出身で東京を本拠とした人形劇団にかつて所属されたご経歴、山村生活に憧れて結婚を機に会津の金山町に古家を購入されご一家で移住されました。

 金山(かねやま)町は会津の虚空蔵(こくぞう)さまで知られる柳津(やないづ)町のさらに奥の阿賀川上流の只見川沿いに位置している。会津若松市から30キロ以上はあるのではないでしょうか。

 都会人が田舎生活に憧れて古家を購入して移住生活する、話として耳にしても実際の人にお会いしたのは阿部さんが初めて、正直大いに関心を感じました。

 町の同好者とともに人形劇団を編成、縁あって赤沢保育園で13年前に公演していただいた。その後、飾り棚の人形制作をお願いしたのが2001年のこと。

 このたび、会津若松市鶴ヶ城近くのギャラリーで個展と人形制作教室を12月に一週間の予定で開催のお知らせをいただき、会津への訪問となりました。

 教室ではお一人習っておられました。2時間程で可愛い作品を仕上げることが出来、喜びの声を上げながら嬉しそうに帰って行かれました。

 実はその辺のところが訪問動機の一つで、機会をみて阿部さんをお招きして教養活動の一環として園の保護者や職員達の研修にどうかと考えております。

 阿部さんのお住まいの金山町には450m程の山の頂に火山湖沼沢湖がありその湖畔に妖精美術館(冬期休館)があり、夏は湖水浴・マス釣り・オートキャンプ場、冬季はスキー場等が楽しめます。

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11月は縄跳び、12月はかるた大会

 縄跳びは身体の動きとバランス感覚の発達を促進させる絶好の運動。園では三歳児から始めますが、三歳児にとって手の動きに合わせて縄を飛び越えることは大変なこと。一年目は正にきっかけ作り。四歳児は前年の体験から何とか跳ぶコツを覚えます。五歳児は大体跳べるようになる。とにかく身体が覚えるためには体験と練習を重ねることです。かるた取りは記憶と認識に身体の運動反射が加わります。

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