夏の思い出アルバム|2010年9月

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処暑(しょしょ)

 今年の暦によると去る8月3日が立秋、23日から9月7日までが処暑となって
いる。処暑とは暑さも落ち着き処を見つけてそれほどひどい暑さではないと
いうことになっているのですが、昨今の暑さは全国的に処暑どころではない
猛暑続き、連日各所で36度から38度などという数字が報じられている。
とはいえコオロギの鳴き声も聞こえるようになりました。処暑が終わると
白露(はくろ)秋分と季節は確実に秋に入ります。

 平成になってから現在の保育の仕事に携わるようになった現園長ですが、
昭和一杯までは新潟を離れて電機製造関係の仕事に従事しておりました。
猛暑が続くと40年ほど以前、仕事でインドに滞在して体験した暑さを
思い出すのです。

 1971年(昭46年)3月から5月にかけて、当時勤務した会社の提携先の
インドの某社に、ある電機部品の製造工程を立ち上げるために現地に赴いた
のだった。滞在先はインド第一の近代都市ボンベイ(現ムンバイ)だった。
インド洋に面した海岸都市のムンバイの3月~5月の気候は丁度今頃の暑い
新潟の気候とそっくり同じで、連日35度前後だった。海に面しているので
40度以上はないが湿度は高く日本の暑さと同様だった。

 土日の休日には各所見物のため、特に趣味の仏教遺跡を回遊することが
ねらいでインド出張を希望したのでせっせと出歩いた。大きな牛のお乳の
ように垂れ下がったインド半島の中央部デカン高原を旅した時に体験した
暑さは格別だった。3日の日程を確保して冷房なしの自動車でもうもうと
砂煙りを巻き上げての1000キロ以上の旅でした。

 デカン高原の旅の目的地は2000年以上前の仏教ヒンズー教遺跡群
アジャンター・エローラ訪問がねらい。ボンベイ郊外を過ぎるとすぐに
高度が上がりデカン高原への上りにさしかかる。道路端には腐敗のため象の
ように大きく膨らんだ牛の死骸が時々無造作に転がっているのにはびっくり。
車の高度が上がるにつれて気温もどんどん上がり、あっという間に40度を
超えて500m程の高原を上がりきったあたりでは45度前後を表示して
落ち着いた。温度計はアルコール温度計を日本から持参した。

 冷房装置のない車の中の温度は窓を開けっ放しにして走っている間は
気温の45度前後だが停車すると、車体が焼けているのですぐに50度以上に
上昇する。

 そんな凄まじい暑さのなかを丸一日400キロ前後走って日本の奈良の
ような由緒ある古都オーランガバード市に到着して二泊した。宿泊した
ホテルは町一番のホテルだったが当時の客室には冷房設備がまだなかった。
客室の窓辺やベランダにはリスが人を警戒する風もなくちょろちょろと
遊んでいて、見た目には涼しげだがとにかく暑かった。深夜になっても
気温は依然として44~5度。ベッドの上では天井から直径1m程の三枚翼の
扇風機がヘリコプターのように回りっ放しだ。最初の晩はその下では
ほとんど眠れなかった。

 翌日、目的の遺跡群を訪問を済ませて同じホテルでの宿泊、疲れと慣れの
せいか二泊目はけっこう眠れた。三日目の帰路、高原を降りると、もう暑さの
ため狂ってしまったのではと思っていた温度計だったが、再び37度辺りを三日
振りに無事に示し始めた。

 人間は何日も体温以上の環境の中でも生きていけるものだと感心。現地の
人たちはそんな中で生れ育ち生活しているのだから当然の話なのだが‥。
そんな自然環境の中で確実に低温を示すのは人の体温なのだ。人肌は温かい
ものではなく気温よりもヒヤリと冷たいものなのだ。そんなことをこの旅から
学んだのでした。

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