祝 赤沢保育園創立第百二十六回記念日|2016年6月

 明治23年(1890)6月1日、赤沢保育園は新潟市礎町4丁目に誕生いたしました。この機会に創立者赤澤鍾美と創立のいきさつについて少し詳しく説明をさせていただきます。

 創立者赤澤鍾美は元治元年(1864年)10月16日新潟町に生まれている。名前は始め庄吉だった。戸籍記載によると庄吉の幼少時は必ずしも平穏無事ではなかったようで幼くして他家に養子に出され後年復籍している。

 その後の明治11年4月に庄吉は新潟町の臨時教員試験に合格し四番堀小学校に就職している。今の満年齢の13歳の時だ。

 明治新政府発足当時の教育制度について若干説明すると、まず明治6年、義務教育制度制定、全国に小学校を設置開校を決めた。しかしその実施には教場と教員の確保がまず問題となり、教場の多くは寺院等を利用した。教員は資格認定採用試験による臨時教員制度を設け、その試験合格者をもって教員に充てた。その受験可能年齢が旧年齢の15歳、15歳は武家時代の元服の年齢に相当した。元服(げんぷく)とは当時一人前の大人とみなした年齢時の武家のセレモニーのこと。当時は生れるとすぐ1歳と数えた旧年齢の数え方で、十月生まれの鍾美は現在の13歳で合格していることになる。当時の漢文づくめの試験問題を恵まれぬ家庭状況でよくぞ合格したものだ。

 臨時教員に採用された赤沢庄吉は、記録によるとまず当時新潟町に五校あった小学校(鏡淵、四番堀、西堀、洲崎、豊照)の四番堀校に就職している。そして五校を順次転勤している。

 明治政府教育制度発足と同時に正式教員養成のため師範学校を設立している。その卒業生を正式教員として配置し順次臨時教員と置き換えていった。

 明治23年当時、赤沢庄吉は豊照小学校に勤務しており住まいは東厩島町でした。柳都大橋の信濃川を後ろにして秣川岸通りを過ぎて最初の交差点が西厩島町(通称こんぴら通り)の端になる。そのこんぴら通りと並行の信濃川寄りの一角が東厩島町だ。

 正式教員と臨時教員との置き換えの波が、明治23年に庄吉の足元に押し寄せてきた。新潟市教員の在籍記録によると、当時の臨時教員は毎年一年契約でその都度身分と給料額が決められ記録されていた。庄吉の場合大略給料は月額6円~10円程だった。因みに当時の校長は20円前後で師範学校出の正式教員は臨時教員の大略倍額だった。

 明治23年に庄吉に示された条件は鏡淵校転勤と給料が月額27銭の大幅ダウンだった。 100銭が1円ですからおおよそ25分の1の減額になる。おそらく非常勤待機職員の処遇となったのでは‥?。そしてその状態は明治26年3月で終わった。

 かねてリストラの波を予想していた庄吉はあらかじめ準備し教員としてアルバイトに力を入れていたようだ。政府が義務教育制度とその普及、国民皆学を叫んでも、当時の一般民衆の暮らしぶりの大半は貧しく、通学どころかその日の暮らしに大半が必死だった。義務教育年齢に達しても入通学できるのはわずか5人に1人の2割程度だった。入学出来ない子どもは任意に読み書きそろばんを教える個人教師や塾に通って学力を得た。庄吉は勤務時間が終わると自宅でせっせと多くの若者を生徒にしていたことが推測できる。

 明治23年4月3日、庄吉住居一帯が自宅を含めて200戸以上焼失する大火発生、自宅での4月開校の計画が挫折した。しかし、すでに庄吉の教えを受けていた通学生や卒業生たちの尽力で200M程離れた礎町に場所を得てスタートしたのが6月1日だった。

 明治26年臨時教員から完全に解放された。

 と同時に庄吉は名を鍾美(あつとみ)と改めた。当時は戸籍の名前の改名が可能だったようです。鍾は集めるという意味があり、美は未来ある若者という意味がある。若い学生を教えることを目指して自身の希望を精一杯込めての改名が理解できる。

 鍾美は私塾を「静修学校」と命名した。その私塾に通う生徒たちが幼い弟妹や奉公先(勤務先)の赤ん坊を背負ったまま受講するものが多かった。鍾美の家族がその幼児たちを一室にまとめて保育の面倒をみたことが、保育事業の先駆けとなりました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「とん汁の味はいかがでしたか?」春の遠足!!

おかげさまで好天にめぐまれた5月20日、春の遠足は無事に終わりました。

 今回の「とん汁の味はいかがでしたでしょうか?」毎回同じ分量・レシピで作るのですが、当日の天候によって皆さんのおかわりの量が敏感に変わります。気温が低いときは温かいとん汁はおなかにしみこみますが暑さを感じるようなときは売れ足は落ちる。

 平成の初め、旧亀田町時代に完成した「亀田公園」、その初めの頃から利用を続けております。最初に下見で訪れた際バーベキュー窯場をみて「とん汁」作りを思いつき、今ではその組み合わせが春の遠足の定番となり25年以上になります。

 開園当初の亀田公園の周囲は向陽高校と県立保育専門学院以外は建物らしいものは見当たらずJR亀田駅も現在の改築前のもので駅舎も素朴で公園側には出口はなかった。公園へは大江山方面に通じる公道の跨線橋を遥々と渡り約2km近い徒歩が必要でした。公園内の樹木も植林したばかりでひょろひょろと頼りなげでこれでちゃんと根付くかと余計な心配をしました。

 下の展望台の写真をご覧ください。公園の西南方向角にあるこの展望台、開園当初は建物の全体が公園のどこからも見えましたが、樹木の成長とともに次第に目立たたなくなりました。公園到着時に毎度この展望台を背景にして記念撮影をしておりますがその存在にはうっかりすると気づかないほどに周囲の樹木が大きく成長しました。

 今、園内には写真屋さんが撮った遠足時のスナップ写真が展示されております。園児と連れ立った皆さん方の楽しそうなシーンを眺めていると、そのどれをみてもぴっかぴかのオーラを感じます。小学校に入学時の新一年生のすがたのようにいやそれ以上に新鮮な活力を感じます。人生の中で子育て中のそれも保育園児時期は経過や成果が一番わかりやすい時期ではないでしょうか。思わず声援したくなります。 がんばって幸多かれと!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー