明治23年(1890)6月1日、現在の新潟市内中央区礎町4丁目に赤沢保育園の経営母体だった「静修学校」が発足致しました。その静修学校の付帯業務としての保育だったので「静修学校」の創立をもって保育園の創立記念日としている。今年は2017年ですので創立から数えて127年になります。創立者は現園長の祖父の赤澤鍾美(あつとみ)と申しました。
創立者赤澤鍾美は元治元年(1864年)10月16日新潟町に生まれた。鍾美生年の元治は、明治の前が慶応でその前の年号が元治だが、その元治の期間は短く、元年2月から翌2年4月までのわずか1年2カ月の期間だが、元年6月には近藤勇が率いる新選組が京都三条の旅館池田屋に踏み込み尊王攘夷派の志士を粛清する事件が、8月には「蛤御門の変」が発生している。明治維新前のそんなあわただしい年でした。
鍾美の名前は始め庄吉といった。庄吉の幼少時の詳しいことは伝わってはないが経済的にも家庭的には祖母に育てられており、決して恵まれた環境ではなかったようだ。そんななかで、なかなかの勉強家だったようでその後13歳新潟町の臨時教員採用試験に合格し、最初に明治11年4月に四番堀小学校に就職している。
臨時教員に採用された赤沢庄吉は、記録によるとまず当時新潟町に五校あった小学校(鏡淵、四番堀、西堀、洲崎、豊照)の四番堀校に就職している。そして五校を順次転勤している。
明治政府は教育制度発足と同時に正式教員養成のため師範学校を設立しその卒業生を正式教員として配置し順次臨時教員と置き換えていった。
明治新政府発足当時の教育制度について説明すると、まず明治6年、義務教育制度制定、全国に小学校を設置開校を決めた。しかしその実施には教場と教員の確保がまず問題となり、教場の多くは寺院等を利用した。教員は資格認定採用試験による臨時教員制度を設け、その試験合格者を教員に充てた。その受験可能年齢が旧年齢の15歳で、当時は生れると1歳と数えた旧年齢の数え方で、十月生まれの鍾美は現在の13歳で合格したことになる。当時の漢文づくめの試験問題をよくぞ合格したものだ。
明治23年当時、赤沢庄吉は豊照小学校に勤務しており住まいは東厩島町でした。
正式教員と臨時教員との置き換えの波が、明治23年に庄吉の足元に押し寄せてきた。新潟市教員の在籍記録によると、時の臨時教員は毎年一年契約でその都度身分と給料額が決められ記録されていた。庄吉の場合大略給料は月額6円~10円程だった。因みに当時の校長は20円前後で師範学校出の正式教員は臨時教員の大略倍額だった。
明治23年に庄吉に示された条件は鏡淵校転勤と給料が月額27銭の大幅ダウンだった。100銭が1円ですからおおよそ25分の1の減額になる。おそらく非常勤待機職員の処遇となったのでは‥?。そしてその状態は明治26年3月で終わった。
かねてリストラの波を予想していた庄吉は自宅で小学校課程指導のアルバイトに力を入れていたようだ。政府が義務教育制度とその普及、国民皆学を叫んでも、当時の一般民衆の暮らしぶりの大半は貧しく、通学どころかその日の暮らしに必死だった。義務教育年齢に達しても入通学できるのはわずか5人に1人の2割程度だった。入学出来ない子どもは任意に読み書きそろばんを教える個人教師や塾に通って学力を得た。庄吉は勤務時間が終わると自宅でせっせと多くの若者を生徒にしていたことが推測できる。
明治26年臨時教員から解放された庄吉は名を鍾美(あつとみ)と改めた。
鍾美は私塾を「静修学校」と命名した。その私塾に通う生徒たちが幼い弟妹や奉公先(勤務先)の赤ん坊を背負ったまま受講するものが多かった。鍾美の家族がその幼児たちを一室にまとめて保育の面倒をみたことが、保育事業の先駆けとなりました。
少し読み難いかもしれませんが、静修学校ついて昭和9年(1934)12月に刊行された新潟市編集発行の 「新潟市史」 上下巻の下巻 第一章 教育 第二十節各種学校の項目に次のように記述されている。
第二十節 各種学校
その他私立中等学校類似の学校設立せらるるもの多かりしも明治大正を経て今日に及べるもの次の三校に過ぎず。
一 新潟静修学校
礎町通赤澤鍾美初め修身学舎なる一私塾を設け、毎夜青年を集めて教授せしが、明治二十三年七月新潟静修学校と改称し、二十六年私立簿記学校を合併し教師を増聘して本科は昼間、専科は夜間に簿記・英語・漢学及び数学を教授し、四年を以て修業年限となす。二十七年本町通り七番町に移り、三十六年東湊町通一ノ丁に移転す。大正八年七月全焼したるも門弟子等の尽力により直ちに同所に二階建ての校舎を建築したり。
(補註:上記記述の三校のうち他の二校は二 蛍雪校、三 新潟産婆学校共に今はない。)
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「いかがでした、トン汁の味は」春の遠足
おかげさまで好天にめぐまれた5月19日、遠足は無事に終わりました、付添いの皆様子どもさんともども楽しい想い出になったかとおもいます。
今回の「とん汁」の味はいかがでしたでしょうか? いつも同じ要領で準備し作るのですが、当日の天候や火加減、具を入れる順序やタイミングや煮詰まり具合などのためか出来上がりの味はどうしても変化します。また気温が高いときはお代わりが鈍りがちになりそんな時は残ることもありでしたが、今回はむしろ不足気味だったのでその点、まあまあの味だったでしょうか。
園児の皆さんにとっていつもの給食とはまるで違った雰囲気でのおひるの食事、楽しい思い出になってくれれば本望です。
ところで保護者付添いの皆様にひとつお尋ねしますが保育園や幼稚園の思い出は皆様それぞれどの程度まで思いだすことができるでしょうか。案外まとまった思い出はないのではないでしょうか。30歳以上ともなると5~6歳ころまでの記憶は予想以上にまとまった具体的な思い出は少ないようです。園当時の担任の先生の顔は思い出せても名前となるとあやふやではないでしょうか。
当保育園の場合、担任保育士はひよこ組から卒園まで同一人で持ち上がりますので0~1歳から入園の方は4~5年以上同一保育士とともに成長していきます。園児にとっても担任にとっても本当にじっくりと成長の歩みとともに接触を重ねます。年ごとに担任が異なる場合と違います。
一般的には保育園の在園時の思い出を質問しても担任の名前すら思い出すのがやっとの人が案外多いようです。
毎年の遠足、春は亀田公園、秋は旧酒屋町のいも掘りと,定型的に繰り返すので記憶に楽しくはっきりとプリントされることを願います。
6月、今月は『運動会』です。
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