園の創立記念日|2020年4月

赤沢保育園は6月1日です。学校の学期を考慮して多くの学校や園の創立や開園は4月が多い。6月1日はそれなりの理由があったのです。

 明治23年(1890)4月に自宅で発足を目指していたのは創立者の赤沢鍾美(あつとみ)でした。そして目指していたのは幼児保育ではなく学校教育の場でした。

 明治6年、発足間もない明治政府は小学校教育を義務教育として小学校制度を全国一律に発足した。制度発足実施でまず教場と教師の確保が問題となった。教場としてはお寺や集会場などが多く利用された。教員の問題は検定試験合格者を臨時教員として採用し同時に師範学校(教員養成校)設立した。江戸時代末期生まれの赤沢鍾美は明治12年その検定試験に合格して新潟町(当時)の小学校教員となった。

 明治23年、鍾美のこれまで給料が大幅に減額となり日額程度が月額となった。それまでは月額が5円以上だったのが27銭に減額されたのでした。師範学校卒業生が多くなると同時にそれまでまで活躍した臨時教員は不要となりおさらばというわけ。鍾美はそれまで自宅で教育指導を行っていたのでした。当時の小学校の入学率は20%程度でした。一般人の生活レベルは低く子どもを学校に入れられるゆとりのある家庭は限られていた。多くは僅かな礼金を持参して必要なだけを教えてもらっていたのでは。臨時教員でも学校の先生は立派な教師。低額で任意の時に通うことができるので重宝がられたに違いない。4月開校を目標にした。新潟市の記録によると4月3日当時の住所東厩島町隣接の住吉町から出火し数百戸を焼けつくす大火となり鍾美宅も焼けた。その後教え子たちの奔走により近くの礎町にところを得て「静修学校」と命名した私学校を発足させた。

 通学生の中には幼児を負ぶって受講するものいた。あつとみの家族が幼児だけを別室に分けて保育したことが赤沢保育園のはじまりとなった。

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宮城まり子さんのこと

この3月21日に亡くなられた。昭和2年3月21日生まれで奇しくもご自身の93歳の誕生日に亡くなられた。

 宮城さんは昭和28年、当時の家庭胃腸薬、西蒲角田浜産の「毒消し」売りを唄った「毒消しはいらんかねえ」という表題歌で歌手デビュー。その後歌手として俳優として大活躍、大躍進。さらに私財を投じて肢体不自由児施設「ねむの木学園」を昭和43年静岡県に設立、その後その施設経営に生涯を捧げられた。

 2006年新潟伊勢丹で同学園の子どもたちの作品展開催。同展を訪れた際まり子氏と歓談、サインを頂戴した。ご冥福を祈ります。

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