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祝 赤沢保育園 創立百二十四回記念日|2014年6月

 今から124年前明治23年(1890)6月1日、赤沢保育園は新潟市礎町4丁目に発足誕生致しました。この機会に124年の歴史の中の幾つかをご紹介させていただきます。

 創立者赤澤鍾美(あつとみ)は明治以前の元治元年(1864)に新潟町に生まれ、明治11年、13歳で小学校の臨時教員採用試験に合格、当時の新潟町の小学校教員になった。臨時教員は最近話題の契約社員同様で毎年契約だったようだ。明治政府が義務教育制度を制定して全国の主だった町村に小学校を開設、場所は寺や集会場・個人の建物を利用して開校したが困ったのは教員の確保で、明治7年教員養成のため師範学校を開設してその終了生を正規教員とすることを計画したがそれまで何年何十年か要するわけでそれまでは臨時教員を一定の試験に合格した者を充てた。その試験の受験可能年齢が当時数え方での15歳だった。15歳とは当時の成人式に当たる元服(げんぷく)の年齢。10月生まれの鍾美は今の年齢の13歳で合格したことになる。明治初期の小学校の教科書は漢文ばかり。その教員の検定試験問題も当然難解な漢文と想像される。戸籍によると鍾美は幼年時に他家に養子に入ったりのようで決して恵まれた環境ではなかったことが想像されるだけに、検定試験に合格する学力をつけたことはなかなかのものです。

 小学校教師生活を通して教育の仕事継続に情熱を感じた鍾美は、当時小学校に行きたくとも行けない多くの子どもたちの小学校課程の私塾「新潟静修学校」を明治23年6月に開設すると同時に幼い弟妹や奉公先の幼児の子守りしながら通学する生徒のために別室に幼児を集めて鍾美の家族が面倒をみたのが保育事業のはじまりでした。当時の小学校は義務教育と言いながらも公立でも大正時代まで授業料をとっており、通学できるのは明治半ば頃でも都市部で20~40%、農山村地帯ではさらに低くかった。
 そんな事情の中で鍾美は私塾「新潟静修学校」を立上げ同時に幼児の保育を始めたのでした。

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 平成12年9月、新潟県展の審査員なども務められた洋画家の三芳悌吉(みよしていきち)氏が90歳で亡くなられた。
 三芳氏は3歳から18歳まで新潟市に住まわれ、その間の思い出を絵物語風自伝としてまとめられ「砂丘物語」の題名で平成8年(2000)に出版された。

 三芳氏は大正2年から上大川前通り十二番町の「小沢邸」わきの通称「茂作小路・もさこうじ」に在住された。その中でなんとなんと西湊町の赤沢幼稚園に通園した思い出が綴られているのです。当時は幼稚園と一般的に呼ばれておりましたが西湊町は三芳氏の記憶違いです。
 その園の思い出は二週間ほどで残念ながら終止符がうたれた。そのあたりを「砂丘物語」の記述をそのままお借りすると:
 「赤沢園長は、いつも着物に幅広の白い兵児帯を尻のほうで蝶結びにしていた。オレンジ色のメリヤスの下穿きを穿き、紋付の羽織をはおっていることもあった。‥ 中略 ‥  それは休み時間のことだった。近くで三人の女の子がちらちらと私のほうを見ながら、ひそひそ話をしたり、目くばせしたりする。わたしは腹が立ってきた。思わずわたしは、足元の小さい石を拾って投げつけた。石は女の子の額に当たり、女の子は悲鳴をあげて大声で泣き叫んだ。女の子の額に血がにじんだ。以下略。  ということで園内で女の子にけがをさせ、それを謝らなかった三芳少年に怒った鍾美園長が彼を小脇にかかえて園から出してもう来るなと追い出した、‥ということで三芳氏と赤沢保育園との思い出はそこで終わったのでした。
 帰る方向が同じ女の子と仲良く連れ立った思い出が上記の絵で、園の前から西側を眺める方向で東湊町通りが描かれている。物語によると、手をつないでいる女の子は本町通り14番町の3階建ての洋食屋「幾野館」の娘で政枝という名で嫁さんにしたいと三芳氏は母に訴えたそうです。

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遠足:亀田公園

 5月16日 予定通り春の遠足はおなじみの亀田公園は無事に終了いたしました。
 写真ではわかりませんが当日は風が強く前日の雨降りの影響で気温が低かったのには閉口しました。予報では“雨もあり”で心配しましたが写真のように晴れてまずまずのお天気でした。
 風と低温のせいか、トン汁の人気は上々で完食でした。20年来いつも多い目に造り残るのでしたが今回は足りませんでした。今回はさすがに流れでの水遊びはなかったようでした。

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 知っていることは知っていると言い、知らないことは、まだ知らないと、心にはっきりさせる。 それが本当に知るということである。
 孔子が、門人の知ったかぶりをたしなめた言葉。

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