園だより」カテゴリーアーカイブ

弥生三月|2014年3月

 赤沢保育園の今年の3月は一年恒例の「お遊戯会」で始まります。

 ひよこ組はまだ歩けない0歳児を除いて一歳児の皆さんから小学校入学直前の年長組の園児全員は今お遊戯会本番に備えての練習に毎日頑張っております。プログラムを下に掲げました。一歳児達がたどたどしい足取りでステージに並んだ姿をみるだけで目がウルウルしてきます。どうぞお楽しみに。

 2月は俗に逃げると言いますがに日数が少ないせいもありあっという間に過ぎ去ります。
 ご存知のように2月の古い別名は「きさらぎ」と言い「如月」と書きます。また「着更着」とも書きます。一年でもっとも寒い季節のため更に一枚重ね着をするからとの説からだそうです。
 3月は「弥生」ですがこれは草木が一斉に芽吹く季節から強調の意味の「いやー生える」がつまって「やよい」になったと辞書にありますが、私は「やー良い季節になりましたなー」がつまって「やよい」になったのではと勝手に思ってます。

 逃げるように 早く過ぎ去る2月でしたが今年は大変大きな二つの思い出を残してくれました。

 その一つは太平洋側に二回にわたっての降雪で、とくに 2回目の14日の降雪は例年ほとんど降雪のない山梨県に一日に一メートルを超える積雪があったことです。東京都・埼玉県や特に山梨県山間部の集落では一週間以上も交通途絶状態が続いたことでした。それに引きかえ新潟県とりわけ新潟市近辺の記録的な少雪には、お天気の気まぐれに驚かされます。

 二つ目は言うまでもなくソチオリンピック。2月7日に開幕して半月間、時差の関係でTV放映が深夜未明になっただけに寝不足になった方も多かったのでは。新潟県人にとってスノボハーフパイプ平野歩夢の銀、清水礼留飛の団体ジャンプ銅、小野塚彩那のスキーハーフパイプ銅と上・中・下越それぞれに日本の8個のメダルのうち3人のメダリストが誕生したことは真に嬉しいニュース。特に平野歩夢の15歳は日本にとって最年少メダリスト記録。そして3人ともよちよち歩きの頃からスキーを履いて育っている。名前がレルヒや歩夢と親の思い入れや意気込みが並みでないことがよく判る。
 金メダルに一番近いと信じたジャンプの高梨紗羅がまさかの4位、浅田真央の転倒とその後の立ち直りの10人抜きの6位、41歳葛西選手のジャンプの銀、同じく渡部暁斗の銀、羽生結弦19歳の男子フィギュアの金、モーグル上村愛子の4位、竹内智香パラレル大回転の銀と数々のドラマと思い出をソチオリンピックは残してくれました。

 そんな数々の記録や思い出を後にして「やあーよい季節・弥生三月」を迎えましょう。

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福澤諭吉の「心訓七則」|2014年2月

 年があらたまって早一ヶ月が過ぎます。さて昨年はどんな事を書いたかと時にはふり返ります。昨年2月はNHKの大河ドラマ「八重の桜」にヒントを得て会津藩校日新館の校則「什の掟・じゅうのおきて・ならぬ事はなりませぬ」を紹介いたしました。また、一昨年は中国古代の学者韓非子の言「厳家に悍慮無くして慈母に敗子あり」、厳しさも優しさも程ほどにしないと子どもはダメになるとの言葉にふれました。いずれも子育て真っ最中の皆さんのご参考になればの心意からです。

 さて表題の福澤諭吉は一万円札の肖像でよく知られております。福澤諭吉は江戸時代後期、天保5年(1834)大分県の中津藩士の家に生れ、始め蘭学・英学を学び、江戸末期・明治期の文明開化に大きく寄与した啓蒙思想家・教育者、現在の慶應義塾大学の基礎を築きました。
 著書「学問のすすめ」の書き出し冒頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」、万人生まれながらにして平等との記述は多くの人が一度は耳にされたことがあるかとおもいます。

 その偉大な19世紀の大先達福澤諭吉の「心訓七則」をご紹介します。

 一、 世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事をもつと云うことです

 一、 世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です

 一、 世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です

 一、 世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です

 一、 世の中で一番尊い事は人の為に奉仕して決して恩にきせないことです

 一、 世の中で一番美しいことは全てのものに愛情をもつことです

 一、 世の中で一番悲しい事はうそをつく事です

 近代日本の大先覚者の人生訓はさすがに素晴らしく人の心に響く分かりやすいものがあると感銘をうけました。
 ところがところがです。残念ながらこれは福澤諭吉自身の言葉ではないのです。数十年前からこの「心訓」はどこからか現れたとのこと。この「心訓」の現代風な言葉遣いやそれらしき出典もなく諭吉自身のものではないと慶応大学や出身地大分県立図書館の諭吉研究家ははっきり否定している。その点心残りですが、諭吉を研究する誰かの善意の創作と理解し、その心意・真意するところを味わい噛みしめて下さい。

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大寒(たいかん)

 今年の立春は2月4日(火)。ご存知のように立春は旧暦では新年の一月元日になります。

 立春の前の十五日を旧暦の節句・せっくでは大寒と呼んでおりますが、大寒の時期はご承知のように年間を通して最も寒い気候になります。今年はどうなっているんでしょうか。新潟市はまだ本格的な降雪は一度もありません。今日29日現在積雪ゼロ。記録的な暖冬。立春の日を境に年があらたまります。旧年の邪気(鬼)を払って新年を迎えるために鬼の嫌う豆をまいて鬼を退散させ新しい年を迎えるということです。

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節分豆まき

はこれからですが、27日豆まきに関連するテレビ取材がありその放映予定をおしらせします。

 取材局は日本テレビ、放映予定は31日朝の5.50からの全国ネット「ZIP!」ハテナビコーナー  7:15頃の予定。新潟ではTeNY(4ch)。なお今回の取材はぞう組の皆さんだけです。

 豆まきに使用される豆は園では永年ピーナッツを使用してきました。ピーナッツを使用するのは全国的には北海道と新潟が主で他県では大豆が主体だそうで、なぜ新潟地方がピーナッツを使用するのかを探求する企画とか。他に市内の神社や市場等で取材。

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 新春恒例の石井式漢字かるた大会、今年は第14回を数えます。
 日時は1月11日(土)、場所は中央区上所「新潟ユニゾンプラザ」: 参加者は総数218名。 参加園は三条市きらきら、本成寺、ふじの木、新潟市西区竹の町、秋葉区敬愛、江南区割野、そして中央区赤沢と計7園。 今年も三条の3園に大部分を持って行かれ残念! 赤沢は諺年少で優勝・4位、俳句年長準優勝と健闘。今年はかなり練習を重ねたので期待したのですが、三条に上回れました。

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園内 餅つき大会(12月6日)|2014年1月

 2013年も残り少なくなりました。最後の12月の行事をふり返ってみました。
 11月末ジュニア展の発表がありましたが、今回は応募作品の全てが佳作で入選はありませんでした。結構いい出来のものを応募したのでしたが、審査の先生の見解の違いでしょうか。残念。

 同じく11月末実施の縄跳び大会、今回は昨年と比較すると大幅に跳び回数が上がりました。 因みに昨年のぞう組の記録は1位323回、一昨年230回だったことに比べると今年の800回は髙レベル。今回のぞう組2位~5位の皆さんは何れも昨年は2~30回程度でしたので今回の熱の入り方に比例して大躍進。今年の年中児の記録は高い。来年は1000回以上が出るのではとたのしみです。過去2000回前後だったこともありましたので新記録とはいきませんが好記録。10年近く以前のことでしたが余りの過熱に健康を考慮して1000回程で園長ストップ制度をもうけたりしました。そのためか記録はその後低くなりましたが、500回以上は欲しいと考えておりました。

 新年1月11日(土)は漢字かるた新潟県大会があります。前回は園児の入賞は全体40席のうち「赤沢」の入賞は3名(7.5%)でした。今回園児参加数全体で205名、「赤沢」は33名(約16%)ですから比率からは6人以上入賞できるはずです。今の練習状況から可能かと推測しますが。  ガンバリ ましょう。

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左利きについて

 左利きは遺伝だとか習慣だとか環境の影響とかと根拠についてはいろいろ言われておりますが、その問題はさておいて人間社会の現実においては右利きと左利きの比率はなぜか圧倒的に右利きのほうが多い。したがって生活様式は右利きに便利に出来ている。 また右利き左利きといっても100%全ての動きがどちらかに徹底していることは少ない。例えばタオルや雑巾の絞り方向、自転車にまたがるのは左からか右側からか、多数派少数派と分れてはいても一方的ではないのではないと観察しながら感じております。本来右左どちらでも対応できるようにヒトの身体はできており多用するほうに筋力や神経回路が発達するからであり、草原に道が出来るのもヒトの踏み跡がやがてハッキリとした道となることと同じような経過では。

 一般的に0歳後半頃から子どもは特に食事時に食べ物を自分で取ろうとする動きを始める。やがてスプーンなどを持たせるようにすれば自分で持つようになる。そんな時、右手で持つように直してやりそれを習慣づける。大体3歳前後で右利きかどうか決まるのではないでしょうか。

 大人になってからも右打ちの野球選手が左打ちに変わったり右左両方投げることが出来る器用な人もおります。

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 12月25日(水)のクリスマス、園児達お待ちかねの男女2人のサンタクロースがプレゼントを」持ってやって来ました。  「煙突がないのにどこから入ってきたのか」と真剣な顔で尋ねておりました。ホントにどこからきたのでしょう? (新潟大学工学部の皆さんのご協力でした)

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師走十二月|2013年12月

 子どもの頃の一年は長かった。「もう幾つ寝るとお正月」のように正月が待ち遠しかった。。

 年齢が高まるにつれて時間の経過の感覚は早くなる。格言「光陰矢のごとし」「歳月人を待たず」のように。この加齢とともに時の経過が早まる感覚は洋の東西を問わない・年末が近付くと大人は何か大きな忘れ物がしてはいなかったかと落ち着かない気持ちになる。

 今園内では、3歳児以上の園児達は「縄跳び」大会と漢字かるた大会準備練習に熱が入り始めている。

 つい数週間前まではまるで跳べなかった子どもが、正しい跳び方で何十回どころか何百回と跳べるようになってきている。一日一日その記録の向上を確かめながら練習を重ねている。子ども達は目標を持ってそれに挑戦し到達し乗り越えていくことに張り合いと満足感を実感している。

 学習という言葉、学は学ぶことでまねるが語源、先輩や親のやり方を見習うことから始まる。習うと云う文字は「羽」に「白」と書く、鳥が巣立つ前に飛ぶ練習を巣の中で繰返し自習する。「白」は百と同じ意味で数多く羽ばたきの練習をすることをいう。

 子ども達は今縄跳びやかるた取りを通して確実に自分から努力し体力と智力と努力する根性を築いている。さらに「継続は力なり」を自ら体験しているのだ。   一人でも多くしっかり頑張ってください。

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 保護者の皆様の暖かいご協力の元で11月9(土)本年度の「バザー・作品展、好天にもめぐまれ無事に楽しく終わることが出来ました。厚く御礼申し上げます。

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スフィンクスの謎と幼児の顔面制動ブレーキ|2013年11月

 上記の写真はエジプトの首都カイロ市郊外のスフィンクス像とピラミッドですが、遥か離れた私ども日本人にとってもおなじみです。

 人間の女性の顔と乳房を持ち胴体はライオンのスフィンクスは、ご当地の神話によるとその前を通る旅人に謎(なぞ)を問いかけてそれが解けなかった旅人を次々に食い殺したとのこと。

 その謎とは「朝は四本足、昼になると二本足、夜は三本足となるものは何か?」です。皆さん分りますか。答えられなければ食い殺されたのです。

 その答えは「人間」です。人は初めは手をつかってはいはいしながら動きます。やがて二本足で立ちあがり、晩年は杖の助けを借り三本足となり、一生を終るということです。

 大略生後五カ月前後に寝返りが出来るようになりやがてはいはいの時期を経て一歳前後でよちよち歩きができるようなる。畳敷きの場合、フトンの上から幼児ははいはいして広い床の上を動き回る事が出来るが最近はフローリング床が多くなり、しかもベビーベッドの場合じかに広い床に行けなくなった。そのためもあってか近頃の子どもは、はいはいの時期がほとんどないまま歩き始める。

 しかし実はその はいはいの時期に胸や腕の筋肉が発達し腕で上体を支える訓練になるのです。その結果上体バランスをとるためすぐに腕が出るようになる。 が、最近の幼児は転んだとき手が出なくて顔面をじかにぶつけて顔を大きく損傷するケースが増えているとのこと。はいはいの時期はそれなりの大切な意味あるコースなのです。それを飛び越えていきなり歩いたと言って一概に喜ぶことは早計、スフィンクスの謎のように人の一生にはいはいは当然必要なコースであることを思い出して下さい。

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 まずいつもの「朝の歌」を元気な声で歌う。次に漢字絵本「月へ行った兎」を漢字カード「月!、兎!、花!」を子ども達の元気な読み声と共に読み聞かせ。続いて準備本番の『切り紙あそび』。保護者の方も一緒に切ったり折ったりして作り上げた「冠」かぶって記念撮影。すてきな時間でした。参観の方々のご協力有難うございました。

 紙しばいや写真カードを使って、食べ物には「赤の仲間(骨や筋肉を作るもの)」、「黄色の仲間(エネルギーになるもの)」、「緑の仲間(身体の調子を整えるもの)」がある事を学びました。これから寒くなりますが、バランスよく食べて、病気にならずに元気に過ごして欲しいと思います。

 マルコ先生の『英語あそび』の時間をみていただきました。4月からスタートですがとても上手になりました。マルコ先生やお友達との英語での挨拶などの掛け合いなどでしたが誇らしげな14人でした。

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 今年恒例の年中行事「作品展&バザー」は来る11月9日(土)開催を予定しております。今、子ども達は作品展の準備に大忙し。どんな風に仕上がりますかお楽しみ。

 今年のバザー食品関係業者さんに変更があります。
お団子が餅菓子老舗の「田中屋」さんに、巻きずしが西区内野町の「瀧ずし」さん、そして新しく本町12出身の若手パン屋さん西区小針に出店している「ドリームハウス」さんが加わりました。これまたお楽しみ。

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オズカス|2013年10月

 叔父(おじ)は父母の弟のことだが、中部・東北地方では単に次男以下をそう呼んでもいる。オズはオジの東北なまり、かすは「残りかす」のこと、次男以下を軽視する意味がこもっている。

 太宰治(だざいおさむ)青森県出身の作家ですが彼の作品「津軽」の中で、自身が六男坊だった太宰は家の跡継ぎが約束された長男・惣領でなかっただけに特別な思いで「オズカス」についての記述があり興味深い。

 しかし、前回9月号園だよりの「惣領の甚六」の説明で触れたように将来の家の跡継ぎ生活が約束され家の中で他の兄弟よりも特別に手厚く育てられたからといって決してそれがその子の人間形成の将来にプラスに働くかというと必ずしもそうでないところが意味深い。それどころか手厚い環境周囲の保護がむしろ発達の妨げになっていることが多い。

 「オズカス」として生を受けた子どもは幼児期から自分の将来は自分で切り開かなければとの気持ちが兄姉達よりも常に働いている。さらに兄姉達との中で自己主張する努力が常に無意識に働いている。その事が兄姉達や周囲の人達の心の動きに気配りすることが過保護に囲まれた甚六よりもいつの間にかしっかりと身についていく。。何が有利に作用するか不利に影響するかは一律単純に割り切れないところが子育ての問題の悩ましい個所。

 子育て方法の是非や結果は簡単に結論はできません。しかし言えることは子どもは環境と直接保護者の影響を鏡のように反映して「育てたように育つ」と云うこと。保護者が神経質に細かく気配りすれば子どもはその気配りを一々待ちうけるようになる。

 子育て一人目二人目は親も初心者、3人目で経験者、5人目6人目となると余裕が持てるのですが。

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いもほり遠足

 9月27日(金)、天候に恵まれて予定どおり「いも掘り遠足」を無事に終わる事ができました。 おいも「紅あづま」の味はいかがでした。自分達の手で収穫しただけに一味もふた味も美味しいのでは。

 平成4年から始めた「いも掘り遠足」、今回で22回目。全く好運なことに悪天候による予定変更がまだありません。季節の変動するこの時期、本当にありがたいことです。来年も晴れますように‥‥。

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 快晴の9月18日(水)、うさぎ・ぱんだ・ぞう組は水族館「マリンピア日本海」を見学訪問しました。

 トドの大きさ迫力に圧倒恐怖したり、ペンギンのよちよち歩きに笑ったり、ヒトデにさわったり、イルカショウを眺めたりと楽しい一日でした。

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惣領の甚六(そうりょうのじんろく)|2013年9月

 長男・長女は大事に育てられたので、その弟妹よりもお人好しでおろかだということ。(広辞苑)

 惣領とは人々の先頭に立って物事をまとめる地位にある人のことで一家にあっては家長戸主を指す。第二次大戦後までは日本の家の家長の権限は絶対でした。そして家の財産や地位職業を継ぐ者は長男か長女と決まっており、長男長女が死亡等の理由で継げない場合にのみ初めて次子以下にその権利の順番が廻ってきた。最初に生れた子どもを特に男子の場合は後継ぎ筆頭の意味で惣領と呼んだ。

 第二次世界大戦終了後、現在のような日本の国の基本的あり方を決める憲法を始めその他の法律や諸制度が大幅に民主主義的な観点に見直され改正されたことはご存知の通り。

 そのような嘗ての旧制度時代の一家にあっては家の後継ぎが約束された最初の子どもの待遇は他の弟妹とは比較にならないほど特別だった。最初の子どもはそんなわけで一家の希望と期待を背負って大切に育てられた。その結果ちやほやされた環境の中で育った子どもが力強く自立心旺盛で逞しく育っていくだろうか。一般に実際はそれとは裏腹真反対になりやすい成り行きになっている。

 常に周囲が自分を見守り手をかしてくれる、それどころか物事をやりやすいように立派にお膳立てしてくれる環境が平常当たり前の状態だとしたら、自らの創意工夫や努力を積み重ねたり不便に耐える根性、雨にも負けず嵐にも負けずに立ち向かう逞しい人になるだろうか。その多くはその反対に陥り易い。

 結果、第一子に冠せられる名称が「惣領の甚六」。甚六とは、甚だしくろくでもない人とはこじつけもいいところだが、それはともかく箸にも棒にもかからないような手に負えない人間になる可能性が大きい。もちろん第一子の多くがそうなることは決してない。 ここで気を付けていただきたいことは近年のように一家庭の子ども数が 一人か二人が大多数になってきたことだ。別の子育て警句に末っ子はどうしても甘えん坊になりがちといわれている。ということは最近の子どもの大半は惣領か末っ子になっているということだ。

 近年中高年のニートや引きこもりが男女ともに多くなってきているようだ。とうに亡くなった親の年金で生活 していた50代60代の人々の問題記事が目に入る。 新潟県内でも女子小学生を誘拐して9年間も監禁した男もニートで老母の稼ぎだけで生活していたという事件もあった。ニートや引きこもりは社会の目に触れにくい存在だけに 以前よりも実際に増えているのかどうかは分かりにくいが、親としてはこれだけにはなってもらいたくないのでは。

 子育ては大変だ。大変でもやりがい頑張りがいのあることは他の何よりも大きいのではないのでは。

 子育て後、上手に子離れ親ばなれしていくこともさらに大切だ。子ども自身に自立心を持ち親への依頼心を成長に従って少なくしていくこと、これの失敗がニートや引きこもりに至る要因の一つ。

 愛情や手数を子どもにかけることは重要な親の務め。親子の関係は生ある限り続く。それをいつまでども続けることは出来ないのが現実だ。

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年齢に「つ」が付くときに立腰・返事 挨拶をする・履物を揃える|2013年8月

 年齢に「つ」が付くときに立腰・返事、挨拶をする・履物を揃える

 年齢の数え方で「つ」の付く年齢、ひとつ、ふたつ‥やっつ、ここのつ、と9歳までが子どもの時期、この「つ」のつく年齢時期が人として最も基本的なことを身につける大切な時期、「三つ子の魂百までも」の魂が育つ時なのです。女子の場合この時期を過ぎると程なく身体成長の証しの初潮を迎えます。男も女もそれぞれ他人とは違う自分に気付きます。「個」の意識が芽生えるのです。そしてやがて子ども時期を通過し、これまでとは違った「こころ」が形成され歩み始めます。

 九州・福岡市城南区に仁愛(じんあい)保育園という保育園があります。その仁愛保育園の保育教育方針として次の四つの目標を掲げております。

  1. 常に腰骨を立てる人間に
  2. あいさつは自分から先に
  3. 返事は「ハイ」とはっきりとする
  4. 履物はそろえ、イスはいれよう
 園長の石橋富知子先生は保育園経営に関わってから園の方針として何か中心となる柱を探し求められました。

 石橋先生は 昭和44年、当時神戸大学教育学部教授・教育学者の森信三先生の研修を受け、森先生のこの四つの教え、方法に深く感銘を受け、仁愛保育園の保育基本方針に取り入れ実践を重ねました。

 その結果、園児達は劇的に変わりました。立腰は姿勢を正すことで集中心が高まり、挨拶返事は礼儀正しさが身につき、履物イスの始末は物事のけじめを教えてくれます。 園児達の素晴らしい変化ぶりは評判となり全国から見学者が文字通り行列をなして訪れるのです。

 赤沢保育園では平成7年に同園を訪問、園児達の動きに深く感銘を受け、良いことは真似でもよいとご了解の元に採り入れてる次第です。

 (この件はまた別な機会で触れたいと思います。森信三先生は平成4年11月97歳で逝去されました。)

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 今年も7月11・12・17・18日の4日間、JSSさんのバス送迎で予定通り指導を受けました。

 年中児にとってプールレッスンは初体験だけに初日は緊張がありあり。顔を水に付ける、ウキを背に水の中を歩く、ばた足の練習といった基礎的な体験の繰り返しですが、4日目になると、子ども達の表情には何かを学び身につけたという自信が感じられました。

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赤沢保育園 スペシャル|2013年7月

 年間恒例行事の「運動会」は6月29日(土)午前9時、豊照小学校室内体育館で園児保護者の皆様のご参加をいただいて予定通り開催。

 全園児の入場行進・園児代表宣誓・赤沢保育園スペシャルエールに続いて各種競争・紅白球入れ・園児保護者の綱引き等など、最後は恒例の3歳以上園児全員のそして保護者職員による紅白リレー競走、無事にケガや事故もなく楽しく終了することが出来ました。中でもこの6月に入園したばかりの最年少園児8カ月のH.A.さん「0歳のはいはい競争」で11カ月の先輩そっちのけに少しも物おじしないでさっさとゴールインする元気ぶりにはビックリ。

 毎年劇的にレースが盛り上がる紅白リレー、目立って速い走者が勢い余ってカーブで転倒したりと今年も何度か大きな見せ場で歓声を盛り上げてくれました。遅れを取り返そうと泣き顔で必死に走る子、あきらめ顔でマイペースで頑張る子とそれぞれです。

 運動会で普段見慣れているわが子とは別の一面を発見される方も多いのではないでしょうか。親の前や家庭内では見せない外での顔がみられるのもこんな機会です。

 話は「あかざわほいくえんスペシャル・エール」のことですが、30年程前に園の歴史調査目的のため筑波大学の学生の来訪があり、その際、学生さん達から教わったとのことです。ネットでしらべると元々はドイツのビアホールが発祥とかとの説があるようですが、意味由来の定説はないようです。

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 東北地方も含めて新潟地方の今年の梅雨は現在のところ降雨量は少なく空梅雨状態。水不足のため田植えの出来ない水田も多いよう困ったことです。それでも梅雨明け予報は下旬だそうです。

 いずれにしろこれから猛暑のシーズン。中旬から4~5歳児はジャンボプール、園内での水遊びもはじまります。体調整備をお願いします。

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祝 赤沢保育園 創立百二十三回きねんび|2013年6月

 明治23年(1890)6月1日、赤沢保育園は新潟市礎町4丁目に誕生した。この機会に創立者赤澤鍾美と創立のいきさつについて少し詳しく説明をさせていただく。

 創立者赤澤鍾美(あつとみ)は戸籍によると元治元年(1864)10月16日新潟町に出生、名前は始め庄吉と称した。戸籍からは庄吉の幼少は家庭的には必ずしも恵まれてなかったことが分る。幼(?)にして他家に養子として入りその後解消している、その年月の記録がないため何歳の時かは不明。また戸籍には両親兄弟の記載がなく37歳年長の養祖母とその娘達(いとこ)と暮らしていたことが記載から判る。

 明治11年4月、鍾美は新潟町公立小学校臨時教員採用試験に合格、小学校教員として四番堀小学校に就職する。鍾美13歳の時のこと。

明治新政府発足当時の教育制度について若干説明すると:
 明治6年、義務教育制度制定、全国に小学校を設置開校を決める。しかしその実施には教場と教員の確保がまず問題となった。教場の多くは寺院を利用した。教員は養成確保のため師範学校をいち早く開設したがその卒業生が全小学校に配置されるまでの間、資格認定採用試験による臨時教員制度を設け、その試験合格者をもって教員に充てた。その受験可能年齢が旧年齢の15歳、15歳は武家時代の元服の年齢。元服(げんぷく)一人前の大人とみなした年齢、当時は生れるとすぐ1歳と数えた旧年齢の数え方。今なら十月生まれの鍾美は13歳、恐らく漢文づくめの試験問題を恵まれぬ家庭状況でよくぞ合格したものだと感想する。

 明治10年代の新潟町の小学校数は5校。そして当時から校名が変わらないのは鏡淵と豊照。鏡淵は西掘通3番町の超願寺に所在し校名は寺裏手に鏡淵という名の池がありその名に由来。

 場所と校名が明治初年から変わらないのは豊照だけ。豊照は学校所在地近くにあった豊照稲荷神社に因んだもの。当時の新潟町の範囲は信濃川左岸(海側)の白山神社下流域で人口は明治22年市制施行時で約4万人だった。

 明治10年代後半になると師範学校卒業の有資格教師が各校に配属され始まると開拓時代に苦労活躍した臨時教員は次々と整理リストラされた。明治時代は現在よりも遥かに厳しかった。明治19年豊照小学校に勤務の鍾美は東厩島町(現保育園東湊町から西南方約300m程の地点)に住居した。

 明治23年、リストラの嵐がまともに鍾美を襲った。それまで月額9円~5円程だった給与が一挙に僅か27銭に減額された。当時の臨時教員は毎年一年契約今話題の契約社員だった。そこで鍾美は退職し小中学校課程の塾・静修学校を創立し依頼を受けて幼児保育も始めた…、がこれまでの定説だった。近年、新潟大元教授F氏の在職中の調査で鍾美の教員の在籍は明治26年まで鏡渕校所属だった記録を発見。同時に給料が前述のように激減したことも判った。明治20年当時の物価は米一俵(60㎏)約2円。調査されたF元教授は鍾美の学校開校は26年以降ではないかと仮説を唱えた。それも一理あるが給与が日当額程度に減額されたことは非常勤の予備軍に配置されたと容易に想定できる。それだけでは生活不可能である。

 学校物事の開始は4月が常識だ。創立記念日が6月であることにはそれなりの理由があった。いつかはリストラと予想して開塾を念頭に在職中からせっせと自宅指導の生徒を取っていたことが容易に想像される。そして4月開校を目指していた。

 昭和9年刊行の新潟市編纂の「新潟市史」によると、明治23年4月3日鍾美住居隣町の住吉町から出火、全焼戸数270戸の大火となり鍾美宅も焼失、4月開校は不可能となった。鍾美の教え子達の開校を願う熱意から隣町の礎町4丁目に教場を兼ねる居宅を得て6月開校となった。

 当時の小学校入学事情は現在とは大幅に異なる。まず義務教育といっても有料で、これは大正10年(1921)まで続いた。明治期の一般庶民の暮らしは今では想像出来ないほど貧しくその日暮らし家庭が多かった。貧乏人の子沢山、多くの家庭が子どもといえども6~8歳から食費倹約口減らしのため他家に下働きや雑事手伝いとして出した。小学校入学は庶民にとっては夢のまた夢、明治初期の小学校入学率は2割程度だった。

 礎町に開校した学校を「静修(せいしゅう)学校」と命名した。子守りしている生徒の赤ん坊を預り世話をした。その保育は鍾美の養祖母と従姉達が当った。そんな経営努力もあって静修学校は繁盛し手狭となり明治26年本町7番町に発展移転した。同年臨時教員籍も完全に離れた鍾美はそれまでの庄吉という名前を鍾美に改め戸籍に登記した。鍾は集めると同義、美は将来ある若者という意味もある。

 本町移転後の静修学校はさらに人気が高まり本町校舎も程なく手狭となった。そこで在学生や卒業生その他有志が協力して資金を集め、明治36年、保育室を含む校舎を東湊町に建設、鍾美に贈った。現在地より50m程西の位置。

 感激した鍾美はそれまで付属業務としてとらえていた保育業務に対して「守孤扶独幼稚児保議会・しゅこふどくようちじほごかい」と命名して本格的に取り組む決意をこめた。現在の保育園の法人名である。その意味は、保育に孤(めぐまれない)の子ども、独は独り親の幼稚児を保護する会と命名した。養祖母に育てられ恵まれなかった鍾美自身の幼少時の思いをこめたものと推定される。後年昭和23年児童福祉法の保育所の定義に通ずる点が多く、その後の研究者の注目を集めた。

 大正8年7月、またまた東湊町1に87戸焼失の大火発生、赤沢校舎も被災した。しかし再び卒在校園生が資金を集めて現在地に建築し鍾美に贈ったのでした。

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遠足 スナップ あれこれ

 例年遠足の日取りは5月の第3~4週頃。今年はバス確保の都合で連休明け早々の10日実施。そのせいかいつも他の何園かと鉢合わせで混雑する亀田公園、今回は赤沢だけの貸し切り状態。天候にも恵まれ楽しく終了することができました。

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