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ご存じでしょうか?『三歳児神話』|2015年11月

 平成18年大月書店発行『保育小辞典』の「三歳児神話」の項目には次の様に記述されている。

 ”「3歳までは母親が子育てに専念しないと乳幼児の発達に悪影響が出る」という考え方。現実とは合致しないという意味で「神話」という言葉が付加されている。母性剥奪理論が理論的根拠とされる。乳幼児を持つ母親が働くこと、保育所に子どもを預けることに対する罪悪感や不安を産み、女性の生き方を制約してきた。理想とされた専業の母親における育児不安の広がり、共働きの急増、3歳児神話に合理的根拠はないとした『平成10年版厚生白書』など、3歳児神話をめぐる議論も転機を迎えている。”

 園長の解説だけでは偏りがあってはいけないと考えて辞書を引用したがどうも学者先生の解説は分かりにくい。

 要は三歳児神話とは三歳までは親が直接保育することが望ましく義務であり、親が最善の保育者であるとの観点に立っている。その期間は親が直接保育すべきであり、それを施設なり他者に依頼することは子どもの生育将来に取り返しのつかない禍根を生じることになる、との考え方が基本だった。あらゆる点で男性優位の昭和の半ば頃までは両親共働きは子育てには無理があり、男が外で働き女は家事育児に専念従事することが好ましいとの考え方が昭和時代の中頃までは支配的だった。

 その後、職場環境の男女同権意識が高まり男女間の賃金格差も基本的に無くなり女性が働きやすい環境になってきた。また結婚早々ローンで家やその他を購入したりでその返済のため共働きが常態の生活構造にもなってきた。

 しかし、そのような社会構造の変化の中にあっても子育て真っ最中の親にとって子育ての大部分に親が直接関われないもどかしさとうしろめたさから、このまま保育園に任せておいて子どもの将来に問題を残さないかどうかの懸念は誰しも多かれ少なかれ抱いている。かといって専業家庭主婦として子育てに専念を心掛けても、現今の一般的な家庭の環境は、ほとんどの家庭が核家族化し近隣との交流もすくなくなり、公園などに行っても同年の子どもに出会う事もほとんど無く、むしろ路上生活者や不審者と遭遇して不安な思いをするのが現実である。といっても高層階のマンション住宅の一室に親子だけで閉じこもる生活を繰り返していては、子どもにとって母親以外の他人と接することのない閉じこもり症候群生活突入のための早期訓練をしているようなものだ。

 三歳児神話が生成された大正から昭和中期頃と平成の現在とではあまりにも子育て環境や社会構造が大きく変化してきた。それにつれて神話は時代に合わない過去の話のはずだった。ところがところである。

 現首相安倍晋三氏が最初の首相の座を健康事情のため一年ほどで辞職。その後健康回復され、第二次安倍内閣が2012年(平成24年)12月に発足、以来現在に至っている。

 第二次内閣発足の翌年平成25年4月、首相官邸内記者クラブで安倍首相は「成長戦略スピーチ」を発表した。 首相はその戦略スピーチの中で、外交問題、経済問題等々に続いて「女性が輝く日本」の構築を目指す事を宣言した。

 その「女性が輝く日本」の具体策としてまず大企業における管理職・役員に女性を多く登用することを経済団体を通して企業に要請した。とはいえ結婚や出産、育児のために職場を離れる女性が少なくないことも現実だ。そのために保育所を充実して入所希望に全面的に受け入れる待機児童ゼロの体制に持っていく。出産や育児のために離職する事がないよう3年間は子どもを抱っこし放題出来るように企業に3年育休を与えるように助成金などの施策も考えている‥、と記者団に総理は宣言した。公務員は「3年育休」はすでにしっかりとりいれている。

 昭和29年生まれの安倍総理、大正14年生まれの父親安倍晋太郎氏に育てられている。問題の多い「三歳児神話」はすっかり総理の脳裏に刷り込まれているようだ。「3年間抱っこし放題」で育てる事が育児法としてどうかはここでは論じません。

 神話はあくまでも虚実取り混ぜありが神話であり、真理・真話ではない。 古代中国の学者韓非子(カンピシ)の言「慈母に敗子あり」(優しいばかりの母親は子どもをダメにする)が脳裏に浮かんでくる。 

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 年中行事の大きな楽しみの一つ『芋掘り遠足』、最初の平成3年秋に実施以来、江南区酒屋町を毎年訪問、今回で25回になります。

 変わりやすいものの例えが「秋の空」、天候不安定なこの時期ですが、これまで一回も雨による変更なしで続けました。赤沢保育園遠足日は晴と酒屋町の方々は噂されてるそうで‥。

 10月9日(金)、今回もこれ以上なしの好天に恵まれました。時期としては遅めでしたのでいものサイズは大き目でしたが、味は上々、栗に負けないホクホク食感です。 皆様のご協力に感謝申し上げます。

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中秋の名月|2015年10月

 旧暦8月15日夜の月のことをいう。

 現在の太陽暦と昔の太陰暦ではおおよそ40日のずれがある。今年の場合、旧暦8月15日が9月27日になる。旧暦では7・8・9月が秋で、8月は秋の真ん中に当る。

 とは言え9月末に過ぎ去った「中秋名月」を話題に取り上げた。それというのも園児達におなじみの「石井式漢字かるた」の俳句の部で中秋名月を詠んだ次の二句があるからだ。

 今年の中秋の名月にあたる9月27日の晩の新潟地方は晴天にめぐまれた。特に今回は月の軌道が地球により接近し普段より15%も大きく見えるスーパームーンの時期と一致したため素晴らしい満月ショウとなった。

 同じ石井式俳句かるたの中に田捨女(でんすてじょ)作の句がある。

 作者の名前が変わっているので説明を加えると次のようになる。田(でん)は名字で田氏であり「ステ」という名の女性だ。ついでながら石井式俳句かるたには田捨女の他に2人の女性作者がいる。加賀千代女と中村汀女。作者が女性の場合末尾に女をよくつける。そのステ女が「二の字の下駄のあと」の句を詠んだのが彼女がなんと六歳の時だったそうだ。大変な秀才だった。その捨女が次のような月見の句を残している。

「けふ」は歴史的仮名遣いで「きょう=今日」と読む。いつか=五日が三回重なって十五夜の今日の月となるわけ。

 田家の所在は播磨の国栢原(かいばら)で現在の兵庫県丹波市柏原である。もともと織田信勝(信長の弟)に仕えた名家で、明治期には華族・男爵の称号をうけている。昭和時代後半、ジャーナリスト・TVキャスター、参議院議員として活躍した田英夫氏はステ女の子孫になる。

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県立自然科学館訪問

 9月17日(木)、うさぎ、ぱんだ、ぞうの各組全員で鳥屋野潟湖畔の県立自然科学館を訪問。迫力満点の恐竜模型ティラノサウルスを背景にハイポーズ。

 科学する心もそれはそれ、おいしいお弁当の昼食、楽しかったです。時々雨のあやしい空模様でしたが暑くもなくまずまずのお天気。楽しい一日でした。

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新潟市指導員による園児の交通安全教室

 これまで幸いなことに在園児の深刻な交通事故の事例はなかった。しかしこればかりはいつ起こるかわからない。毎年新潟市の指導員が各保育所を巡回して園児たちに交通ルールを分かりやすく指導してくれる。その教室、今年は9月9日(水)、ひよこ組も交えて全員でしっかり受講した。

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あなたの怖いものは…そのランキングは?|2015年9月

 昔から怖いものランキング・番付は「地震・カミナリ・火事・おやじ 」と相場は決まっております。別の言い方をするならば天災・人災・人ということになるでしょうか。

 天災の怖さは「3・11東日本大震災」の地震・津波の怖さで十分過ぎるほどにわかりました。そしてその後の放射能汚染₍(人災)の恐ろしさもです。保護者の今の皆さんの感覚では東日本大震災の恐ろしさはいやっと云うほど記憶に生々しいはずです。そして報じられるIS国家関連の戦争の惨禍や人質に対する残虐な行為、本当に恐ろしいことです。その深刻な恐ろしさをヌキにすることはできないのですが、少し肩の力を抜いてもっと軽い感覚で身近な日常的なもので怖いものは何かを考えてみました。

 7月初め、地方紙の新潟日報の子ども向けの特集記事で会員読者を通して「小学生と大人の一般人」に対しての「怖いものランキング」のアンケート結果が掲載されました。その一部を読みますと、小学生の怖いものランキングが次のようでした。調査は学年別男女別に分類されておりましたがそれをまとめた全体の怖いもの順は次のとおり:

①おばけ、幽霊 ②お母さん ③お父さん ④夜(暗い所) ⑤虫 ⑥鬼 ⑦地震・天災 ⑧おばけ屋敷 ⑨死 ⑩宇宙人 ⑩犯罪者・不審者

 またそれとは別に20歳以上の大人を対象にした結果もあり下記のとおりでした。

①地震・天災 ②病気 ③人(人間関係) ④おばけ・幽霊 ⑤お金 ⑥死 ⑦事故 ⑧妻 ⑨災害 ⑩将来

 興味深いことはその存在を信じていない筈の20代と50代以上の女性がお化け・幽霊をあげているのです。

 上記記事がヒントになって園児たちの怖いものランキングが気になり尋ねてみました。

 年長クラスのぞう組皆さんの答えは次の通りでした。>

 まず1番目~3番目に限定して質問形式で尋ねてみました。

 1番目に怖いのは:お化け幽霊(8名)、夜のトイレ(4名)、暗いところ(1名)、ママ(1名)。

 2番目:夜のトイレ(5名)、虫(4名)、自然科学館の恐竜、怖い絵、怖い夢、お化け・幽霊、  なし(以上各1名)。

 3番目:カミナリ(4名)、暗い所(2名)、お化け・幽霊(2名)、トイレ(2名)。なし(2名)、怖いゆめ、鬼、(各1名)。

 因みにママが一番怖いと答えた子はママ以外は「なし」でした。

 さて、皆さん方の怖いものランキングは?

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 お知らせ: ①BSNラジオ朝のワイド番組:「はや・すた」・プリンスモーニングインフォメーション「新潟の元気なこどもたち」に、:ぞう組の皆さんが出演します。

 ◎月日=9月3日(木)~10月30日(金)の毎週の木・金曜日に各1名ずつ。(但し9/4(金)・9/11(金)・10/29(木)を除く)

 ◎時間=午前8時15分より毎日1名ずつ1~2分程度:インタビューで将来の夢やお友達・家族のお話しなど‥。

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玉音放送(ぎょくおんほうそう)|2015年8月

 天皇陛下のお声を尊敬をこめて玉音という。毎年8月が近付くと「耐えがたきを耐え忍び難きを忍び‥」と終戦を告げられた玉音放送がおもいだされる。

  1945年の終戦の詔勅から今年で70年の節目。

 昭和初期に生をうけた者にとって、8月が近付いてくるといやがおうでも第二次世界大戦、大東亜戦争の終結の時のことが頭に浮かんでくる。その時を経験した一人として当時の新潟市のことを思い出して書きしるしてみます。

 大規模な空襲をうけることなく終戦を迎える事ができた新潟市でしたが、昭和20年頃は、5月頃から8月にかけては頻繁に米軍の小型戦闘機グラマンが太平洋の航空母艦から発進して福島県から阿賀野川沿いに新潟港を目指してやってきて小型爆弾を落としていた。主として港湾設備や輸送船舶の破壊が目的なのだが、その頃ともなると新潟港もろくに船らしい船もなかった。何隻かの船が港近くにすでに破壊され座礁していたのが思い出される。米軍機は適当な目標が見当たらないと市内上空に入りパイロットの顔がはっきり見えるほどの低空を遊覧飛行の様に楽しそうに飛びながら残った爆弾を機体を軽くするために適当に放り投げて帰って行った。そんな一発が今の第四銀行住吉町支店東側の道路、当時は早川堀でその堀に止まっていた人糞を運ぶ小さな肥やし船に命中、辺り一面人糞だらけになったとそんな話もあった。当時のトイレは全て汲み取り式、近傍の農家が野菜を積んで新潟に売りに来て、帰りは肥料となる糞尿を積んで戻るのがお決まりだった。

 昭和20年頃ともなると日本各地の主要都市が毎日のように米軍の爆撃空襲被害の報道が続き、特に3月の東京の大空襲、同4月には米軍の沖縄上陸作戦が伝えられ、日本の劣勢が明白となり、神風を信じ神国日本に敗戦は無いと信じていた日本国のムードも次第に暗く重いものに代わってきた。

 8月1日の夜9時過ぎ、富山県方面から北上する米軍爆撃機編隊を報ずる東部軍管区情報がラジオから流れた。いよいよ新潟市がやられる番と父と二人だけで園舎内におったが、これで自分達の運命も今宵限りと覚悟を決めた。しかししばらくしても米機の来襲は無く新潟の街は静かのままだった。やがて南西方向の山手の上空が真っ赤になり長岡市が空襲されていることが報じられた。自分達の運命が今夜限りでないとはわかったが、ホットする気持ちではなくちょっと伸びただけだと力ない気持ちで長岡市上空を眺めた。

 その頃の新潟市内では空襲を恐れて多くの家庭が春頃から田舎の知り合いや親類を頼って移り住みが始まっていた。市内の街の人の気配も日ごとに減り静かになるのを感じた。実際の人口も普段の何分の一と少なくなったのでは。当の赤沢一家にしても、私の母(先代園長)と弟妹4人は母の実家新津の秋葉山近くを頼って移り住んだ。

 当時の市内の道路は主要道以外の多くは今と違って未舗装だった。東湊町通りが自分の存命中に舗装は無いと思っていた。それら未舗装の道路の大半は道幅の半分近くまで深刻な食糧不足のたしにと家庭菜園として耕されナスやネギ、大根などが栽培されていた。

 8月6日朝、広島に原爆が投下された。新型爆弾が投下されたと報じられたが、詳細は一切不明。新型爆弾と聞かされても何の事か見当もつかなかった。8日だったと記憶するが、米軍機一機が飛来しビラを撒いて去った。そのビラを拾っても読まないようにと通達が町内を通して告げられてきた。新潟市に新型爆弾を落とす予定との記述があったように思いだせる。9日長崎市に新型爆弾が投下された事がラジオを通して知った。

 8月10日か11日だったか定かでないが、当時の新潟県知事畠田昌福名で新潟市民は10キロ以上に避難するようにとの通達が出された。これは新型爆弾への対応のためと聞かされた。中央区の本町通りと万代橋に通じる柾谷小路との交差点が新潟市の起点、そこから直線10km以上の地点に避難せよということだ。

 父と二人で大八車に取りあえずの荷物を積んで当時大江山村大淵(現江南区)の知り合いを頼って避難することにした。市内は12日朝からぞろぞろと街の通りは避難する人達のリヤカーや大八車が連なった。13日までに避難するようにとの通達、その期限ぎりぎりの13日の夕刻出発した。柾谷小路、万代橋はリヤカーと大八車の列で外国難民の避難風景そっくりの行列だった。(※大八車とは日本古来木製のリヤカーに似た二輪の手引き車ののこと。車輪も木製で接地部分は鉄製のわっかになっているので引くとガラガラと賑やかな音がする。粗野でガサツな男をガラッパチの語源か?)

 14日の朝方に知り合いの家に到着、ひと眠りしてまた私どもは夕刻に新潟の園に引き返した。

 何のための避難だったのか。15日には園に戻った。しかし、正解だった。

 そして15日、ラジオは朝から正午に重大放送があるので全国民は聴くようにとのアナウンスが繰り返された。天皇陛下のお言葉の放送と聞いて前代未聞のことと緊張した。

 放送の始めにアナウンサーが起立するよう告げた。放送は雑音がひどくて極めて聴きづらかった。用語も難解で聴き取れても理解は難しかった。ただ「受諾・じゅだく」という言葉がアナウンスにも繰り返され、とにかく相手の言う事を受け入れた、負けた、つまり降伏・戦争の終わりということかなと理解し、張り詰めた緊張が抜けるのを感じた。

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 昨年8月の「園だより」を読み返すと47歳県会議員が県議会で大泣きした事件、岡山県倉敷市小学校5年生少女を誘拐して捜査員にこれは妻ですと大真面目に答えた49歳男の事件に触れている。

 特別に厳しい環境で成人したとは思えない両人、一体どんな影響で上記のようになるのか、間違ってもそんな風になって欲しくないとそんな思いにかられるような事件です。それだけに一体どんな家庭で親元で人となったかが気になるところです。

 冒頭に掲げた韓非子の言葉ですが、この語句も実は3年ほど前の「園だより」で取り上げた言葉です。上記の県議員の話や誘拐事件を知ると、あらためてこの韓非子の言葉が思い出されるのです。まずこの語句の意味を簡単に説明しますと以下のようになります。

 「厳しい家ではしっかりした頼もしい男は育たない。また思いやりある家庭では子どもはダメになる。」

 虜とは捕虜のことで昔の中国では戦乱のあと捕虜を連れ帰り奴隷として働かせた。そんな関係が平常的になり虜は使用人・雇人の意味に変化していった。

 箸の上げ下げまでも一々口やかましく主人(親)が細かく指示命令するようなところ(家庭)には頼もしく信頼できるような使用人(子ども)は育たない。またあまり甘やかし持ち上げるばかりでは子どもはダメになる。(※悍=かん・荒い・気の強いの意。敗=敗れる、ダメになる)

 韓非子の思想は、人は放っておくと悪い事するので規則や刑罰が必要だという性悪説。人は理想を追い求めるもので本来的には善であるとの孔子や孟子の理想主義思想の性善説と対比される。何れの面もそれぞれもっともであり、人は常に善と悪の間で揺れ動いているのではと思いますが?

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先月「武者小路実篤氏」をご紹介しましたが次の様な言葉も味わい深いもので追加ご紹介します。

◇ 人生というものは思わぬときに道が開けたり 閉じたりするものだ。

◇ 結婚は早すぎてもいけない 遅すぎてもいけない 無理が一番いけない
  自然がいい。

◇ 桃栗三年柿八年 だるまは九年 俺一生。
  (註:だるま達磨大師、インドの高僧   ・禅宗の始祖、九年壁に
  向かって 座禅の結果悟りに達したと伝えられている)

◇ すぐれた人間は いざという時が来ないでも
  いつも全力をだして仕事をしている。

◇ 一から一を引けば零である。 人生から愛を引けば何が残る。
  土から水分を取れば  砂漠になるようなものだ。

◇ 自分を責める事を知っている者は善人だ。他人ばかりを責めるのは悪人だ。

◇ 趣味ということは馬鹿に出来ない。人間の上等下等は趣味で大概決まる。

◇ 君は君 我は我なり されど仲よき。

◇ 自然 必然 当然。   三つのものの  合一する道を歩く確かさ。

◇ 心配してもはじまらないことは  心配しないほうが利口だ。
  心配すべきことを  心配しないことはよくないが
  それは大胆に  いじけずに  心配すべきだ。

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仲良き事は美しき哉|2015年7月

 カボチャ、キュウリなどの野菜の絵とともに「仲よきことは美しき哉」と描かれた色紙額をご覧になったことがありませんか。明治・大正・昭和の三時代を、小説家・詩人・劇作家・画家として活躍され文化勲章受章、名誉都民でもあった武者小路実篤氏によって描かれたものです。昭和51年90歳で亡くなられてから約40年、今ではご存じの方も少なくなったかもしれません。

 仲よき事、極めて平凡でありふれた事だが実に大切なことだ。国同士が仲よくなれば平和が保たれ戦争も起こるはずもなく、人同士が仲良くなれば争いも起こらず犯罪も殺人事件もないはずだ。動物の生態などのドキュメンタリ記録などを見ていると動物同士の争いの大半は、食と性の問題に尽きるようだ。人間世界にしても所詮それに尽きるのでは。

 平和の和の字はノギ・禾偏にクチと書く。ノギとは穀類の種子(モミ)のトゲ・野毛のことで、「園だより5月号」の上野・下野(コウズケ・シモツケ)の説明を思い出していただきたい。穀類を口に出来れば食の問題は解決し平和になる。食の確保のため縄張り問題が生じ、人の場合は領土問題へと発展するのだ。

 今から約1350年前、7世紀飛鳥時代の聖徳太子は、国の政治のあり方の基本理念として『和をもって貴しと為す』と説かれている。

 武者小路氏は人生訓や名言を多く残している。もともと生家が華族(子爵)であり大戦中は貴族院(現参議院に相当)議員だっただけに、その根っこはお坊ちゃんで理想・利己主義、楽天的との評もあるが、それだけに純粋さも感じる。氏の格言をもう一つ。

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 この3月末に川上倖輝くんが東区へ、中川昊也くんが江南区にそれぞれ転居・転園しました。二人とも1歳児ひよこ組から4歳児ぱんだ組終了の4年間を「赤沢」で過ごしました。2歳児の時からの担任のT保育士が、現在5歳児ぞう組全員の両君あてに描いた絵手紙をまとめて5月初めに届けました。その後そのご返事を戴きました。

 上は川上くんから、下は中川くんとお母さんからのお礼の手紙です。いいお話ですのでご了解をいただいて紹介させていただきます。お二人とも運動会にきてくれました。

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 さる6月20日(土)お天気にも恵まれ今年の運動会は無事に終了致しました。会場がこれまで近かった旧豊照小学校に代わって約1キロ以上離れた日和山小学校、と初めての場所での運動会だけに、園用具の運搬や慣れない会場の使い勝手がどうか等々、正直な話、心配・不安の種は尽きませんでした。

 事実は「案ずるより産むが易し」で無事に実施出来た事を感謝しております。晴天にも恵まれたことも幸いでした、そしてなによりも保護者の皆様の大きなご協力のお陰でした。会が楽しく無事に予定通りに終わることができましたことを心から喜んでおります。ありがとうございました。

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熱中症や真夏日が天気予報に出る季節になりました|2015年6月

 4月の新年度が始まってから早いもので2ヶ月が経過、進級して組名が一年繰り上がってその新しい組名に対しても園児達は初期の張り切り感が和らいで気持ちが慣れてきました。

 4月入園の子ども達も「春の遠足」が終わる頃には大体園生活になじんでくる。保護者と一緒に普段と違ったそれも楽しい園行事をすることでなじみが一層深まるのだ。それでも、まだまごまご手間取っている子どもも6月の「運動会」が次の節目になる。それが終わると大体こころの足並みが揃い落ち着く。特に運動会ではその練習をとおして、一緒に走ったり競ったりすることを繰り返していくうちに他者と歩調や気持ちや目標が共通となり、理解や意識が揃ってくるのだ。スポーツはその目標や技術のレベルがはっきりとしてわかりやすい。幼児でも3歳頃になれば大体勝ち負けや優劣を理解することが出来るのが運動会だ。

 子どもの時から勝ち負けを経験することは、勝った場合はともかく敗者の悲哀を味わう事は子どもにとって残酷であり、大きく心が傷つくこともあり、心の健全な成長にはマイナスである。とそんな見方を重視してか競技の優劣を決める運動会が学校ではやらなくなり、それに代わってスポーツ的なお祭りフェスタなどに置き換わって久しい。フェスタ的行事はそれはそれで大いに結構だが、勝ち負けを決める競技会とは異なる。誰しも負ける事はイヤであり時には傷つくかも知れない。人生勝ちばかりではない。人は負けや失敗の口惜しさをバネにして自分を鍛え上げてこそ実力が向上するのだ。勝っても敗者にたいする感謝やいたわりの心も勝負をとおして学んで欲しいものだ。

 保育園の園児に対する役割使命は: 保育園の本来の役割は、保護者の方々がそれぞれの事情で保育が出来ないか困難な子どもの保育委託を受けて健康的な環境で安全に守り保育することだが、それは真正面な役割使命であり、可能な限りそれを全うすることに専心することは言うまでもない。

 『三つ子の魂百までも』は古くから日本で言い古された諺(ことわざ)。三つ子は三歳児のことだが昔流の数え方で今の年齢では2歳児に当たる。当保育園の「こあら組」になる。2歳の時の魂はその後の生涯に影響・左右する基だということだ。この世に生をうけた赤ん坊の頭脳はまっさらだ。赤ん坊が人として最初にやることはまず目の前に見える事物を見る事だ。そのうち同じものが何回も見るとそれを記憶する。その初期に記憶したものが三つ子の魂を構成するのだ。赤ん坊の眼前にもっとも頻繁に見える映像は通常母親の場合が多い。鳥のひな・ひよこは最初に眼前見えて動くものを母親と思いこんでそれが犬であろうと猫であろうが必死になってその後を追いかけるそうだ。

 ある日の園内のこと。階段をのぼっていた4歳の女の子か突然登るのをやめて固まってしまった。その表情は緊張と恐怖を示していた。何事ならんと階段をみても何もそれらしきものが見当たらない。彼女の視線の先を見ると5ミリ程の小蠅が止まっていた。まさかと思ったが彼女の恐怖の原因はその虫だった。彼女の家の誰かが(母親?)極端に虫を嫌って怖がって虫を目にするとおおげさに家の中を飛び回るのではないかと想像した。先輩の動作に大きく魂が影響かされた4歳児にとっては動く虫を見ると体が固まってしまうのだ。理屈でなく体に摺り込まれたこの感覚・魂は間違いなく百まで続くに違いない。

 百歳までの魂が形成される重要な時期の子どもをお預かりしているのです。まずその第一歩は食事の際の手づかみから箸・スプーン使い、おむつからパンツへのトイレトレーニングだ。0~1歳児からの在園児ひよこ組は2歳になるまでに、そして2歳児はこあら組が終わるまでを目指している。

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 ファンタステックな作品の影絵 作家・藤城清治(ふじしろせいじ)の世界、栃木県那須高原に 一昨年新しく開館した展示館をこの5月連休に尋ねてみました。

 同氏の名前を知らなくともイラストや展示室の写真、ケロヨンのキャラクターをご覧になれば、多くの方は見覚えがあるのではないでしょうか。

 磐越・東北自動車道・郡山経由那須ICを降りて一般道約11キロの地点。大型連休の観光人気スポット那須高原の交通渋滞は大変なもので、ICの降り口から入館までに2時間かかったのには参りました。

 同氏の作品はヨーロッパ・メルヘンの世界に引き込んでくれるのでは‥、そんな同氏の90歳を超えてもなお盛んな創作活動に直接触れたくて訪問を決めた。そんなに広くもない館内だったが狭い通路暗い室内のためか出口がわからなくなり一時迷子になったがその分藤城清治の世界はしっかり堪能してきた。

 那須一帯は遊園地、観光牧場、温泉や那須岳ハイキングもありで観光スポットとしては好地点、それだけに休日の交通渋滞に注意。

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 一年の恒例行事、その最初がまず遠足。その遠足の楽しさを大きく左右するのが野外行事だけにお天気だ。

 5月20日(金)、幸いお天気は申し分ない上々の好天気。「あかざわの春の遠足」の定番になっているのが、公園備えつけのバーベキュー窯場を利用して造る「とん汁」。緑一杯の広々とした公園を楽しんだ後の「とん汁」、今回の味は満足いただけたでしょうか?

 子どもが成人し、園の遠足を思い出したとき、公園の流れでびしょぬれになったとか、あるいは遊具遊びでひやりとスリルを体験したとか、そんななかで「とん汁」の味を思い出してもらえれば嬉しい限りです。

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地名・人名の読み方 その難しさ・面白さ|2015年5月

 漢字の読み方は実にさまざまである。特に地名人名は複雑で一筋縄でいかない。私事で恐縮ですが園長の私は平成になってから今の保育の世界に関わるようになった。それ以前の昭和の終わりまでは製造・物造りの世界に30年以上従事していた。その昭和末年頃、栃木県宇都宮市郊外のある工場に勤務していた時のことだった。

 その工場のある部門は24時間稼働しておりその夜間作業者の中に中国の留学生がいた。留学生といっても40歳前後で西安市の工業大学の助教授で、中国国費で宇都宮大学工学部で学んでおられた。その頃の中国はまだ経済的に未発展で今のような旅行者が爆買いするような経済力も工業力もなく、資金的にも乏しい状況だった。それだけにエリート留学生でも支給される国費は月5万円程度で、アルバイトなしではとても生活できなかった。それはともかく、さすがに大学の助教授だけあって彼は紳士であり学究的で日本語習得姿勢も謙虚熱心だった。その日本語学習のために手当たり次第に日本人にそれも漢字に関連した質問が多かった。その相手として私は結構当てにされた。

 上野(こうづけ)・下野(しもつけ):栃木県はその昔下野(しもつけ)の国と呼ばれ隣の群馬県は上野(こうずけ)の国とよばれたことはご存じの通り。忠臣蔵でお馴染みの悪役吉良上野介(きらこうずけのすけ)は有名であり、この場合上野をこうずけと読むことは大抵の人は知っている。しかしなぜ上野がこうずけになり、下野がしもつけになるかを答えられる人は極めてすくないのでは。その留学生はその説明を求めてきた。彼の質問には大抵答えていたが、この質問には即答できなかった。

 考えてみると実に不思議な読み方である。

 稲イネや麦ムギの実、籾もみにはトゲのようなヒゲ状のものが付属している。そのトゲ・ヒゲ状のものをノゲまたはノギと呼び漢字で野毛または禾と書く。 ノゲ、ノギは奈良・平安時代では同時に穀物を意味した。横浜の野毛山町や東京世田谷に上野毛町がある。穀物のよくできる地域を毛の国とよんだ。山手の地域を上の毛の国、その下手を下の毛の国と呼んだ。上越新幹線の駅「上毛高原」もそんな由来。また奈良平安期には「上の毛の国」、位置を表す初めの「の・野」を「つ・津」という言い方となり「かみつけのくに・上津毛野国」となる。かみ「上」は「神」とも通じ、発音も「かみ」から「こう」と変化する。兵庫県の神戸市(こうべし)や伊豆七島の神津島(こうづしま)のように。その結果「かうづけ」になるのだが表記は「「毛」が略されて単に「上野」だけとなり、現代仮名遣い表記では「こうずけ」となる。同様に「下津毛野国」が「下野」だけで「しもつけ」と読んだ。

 ついでながら、栃木県小山市から群馬県高崎市を結ぶ鉄道JR「両毛線」があり、群馬県の有力新聞には「上毛新聞」がある。

また、変わった読み方の人名では昭和前期を代表する流行歌手、秋田県出身の東海林太郎(しょうじたろう)をご存じでしょうか。

 東海林がなんで「しょうじ」になるのか、永年の疑問だった。ネット検索はそんな理由を調べるのに実に便利だ。

 それによると諸説多くあるがその全部は長くなるので要約すると大略次のようになる。

 まず「しょうじ」とは庄司または荘司のことで、昔、領地のことを「荘園・しょうえん」と呼んだ。その荘園の管理者のことを「荘司・庄司」とよんだ。山形県内の「東海林・とうかいりん」という地名の場所の管理者を荘司しょうじと呼んだのがはじまりとか。また山形では「とうかいりん」とそのままの呼び方もあり、また「しょうじ」の二通りあるとか。何れにしろ山形県、北海道、秋田県、宮城県に多い苗字とのこと。

 漢字の読み方、いろいろあって奥深いですね。

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 この3月末に閉校した中央区新潟島下町地域の四小学校(湊、栄、入舟、豊照)を統合して新たに『日和山小学校』が旧入舟小学校の施設で4月から発足したことはご存じの通り。

 好天に恵まれ4月9日(木)、その日和山小学校の入学式は57名の新一年生を迎えて予定通り無事に開催終了。

 赤沢保育園からは12名の卒園児がめでたく入学。

 日和山小学校校歌は、旧栄小学校出身のかの超有名歌手小林幸子さんによる作詩作曲。右手の歌詞は入学式会場室内体育館に額装掲示を撮影。

 同校入学式に園長出席、校歌の作詩作曲者の招待出席があるかもとちょっぴり期待したがそれはなく、その代わり下記右上の写真のステージ上の立派な生花が名札とともに大きく飾られていた。

 校歌の曲調はやさしく明るく親しみを感じる歌いやすい曲との印象をうけた。歌詞3番目には四校の文字が織り込まれ、さらにさりげなく「幸」の字も‥。

 校歌の歌詞のように「日和山小学校」の未来が豊かに栄える事を心から祈ります。

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名前|2015年4月

 今、保育園にっとって3月の卒園式、4月は入園式と、お別れや新しい人達との出会いの季節だ。保育園の場合、一年の中での園児の出入は卒園は一斉だが、入園は学校のように4月一斉とは限らないがやはり4月は多い。新しい園児との出会いは新しい名前との出会いでもある。

 新聞には新しく誕生した子ども達の名前欄と亡くなられた方々の名前欄が大体同ページに並んで掲載されている。死亡欄は大正から昭和初期の方が多い。新生児の名前と死亡欄の名前の特徴と違いがはっきりと時代を反映している。

 まず昔の名前は男女の性別が一見してはっきりとわかる。女性名はカタカナやひらがなだけが圧倒的に多い。男性の場合 かながき名前はまずお目にかからない。女性の名前は昭和中期となると○○子と末尾に子がつく名前が圧倒的に多い。

 最近の子どもの名前の傾向は昭和時代のそれとははっきり違ってきている。女性の名前ではまず「子」の付く名前が絶滅危惧種に近くなった。代わって耳にやさしい語感の名前やテレビドラマのヒロインの名前や有名人の名前にあやかったりが多くなった。また西欧外国語名をそっくり頂いて印象のやさしい漢字を当てはめる名前が多い。例えば、アンナ杏菜・安奈、カレン華蓮、エマ江真、レナ伶奈、サラ沙良のように、‥。

 今年の一月、園田天光光(てんこうこう)さんが96歳で亡くなられた。旧姓松谷と言ってもご存じの方は少ないかと思われる。

 天光光さんは今は当然になった女性国会議員、大戦後の1949年、日本最初の東京都選出の女性第一号議員の一人だった。その上変わったそのお名前、そして妻子ある園田直議員(熊本県選出)と大恋愛の末結婚された。当時は白亜(国会議事堂)の恋、不倫議員と国家的と言えるほどの大きな話題となった。また在任中に妊娠出産、ママさん国会議員の第一号でもあった。なお、園田直氏はその後、1976~78年の福田赳夫内閣の官房長官・外相・厚生大臣等を歴任された。

 天光光さんはその後議員をはなれても政治活動をつづけ、彼女の尽力でブルガリアヨーグルトが日本でもおなじみとなりブルガリア国から最高勲章を贈られている。最近では野田聖子議員の出産のため議員産休制度成立にも大いに尽力されたとのこと。

 ところでその変わったお名前「天光光」は実業家として成功され教育熱心だった父親の意向。男子を願ってこの名前を用意されたが女子でもそのまま命名したとのこと。初めの光は宇宙の天の光、同様に二番目の光は自分の光で世の中を照らす人間になってとの思いが込められている。天光光さんも初めこの名前に抵抗を感じ「天光」の二字だけを記した時期もあったが、父の意を理解して、以来政治家として誇りをもって天光光の名前を愛されたそうです。

 子どもの名前はその子にとって一生ついて回る。子ども自身がその名前を選ぶことはできない。親の付けた名前で一生過ごさなければならない。結局子どもは親のたどった心の軌跡を同じようにたどり親の思いと重なることが多いのでは。子どもが長じて名前に感謝する、実に結構な話では。

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 去る 3月13日(金)、ミスタードーナッツ事業部約20名の皆さまが御覧のような着ぐるみ“ポンデライオン”と一緒に園児全員にドーナッツのお土産持参で来園されました。年長児のみなさんにはドーナッツの上に好きなトッピング作業が出来るおまけ付き。思いもかけない楽しい思い出となりました。ミスド事業部販促プロジェクト活動とはいえ皆さま本当にありがとうございました。

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 昨年6月の運動会の写真、会場は豊照小学校の室内体育館。園だより3月号で触れましたとおり、豊照小学校はこの3月末をもって明治6年開校142年の歴史に幕が下りる。 空き家となる校舎や敷地の活用は、まだ具体的には決まってないようだが、管理人を置いて設備維持管理する予定はないとのこと。

 当保育園の目玉イベントとして地元の皆さんにも永年親しまれてきた運動会、その会場として豊照校の体育館、それが出来なくなるのはほぼ確実。園としての大きな課題です。どうしたものか、皆様方のお知恵やご意見をお聴かせいただければありがたいです。

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天行健 君子以 自彊不息|2015年3月

 赤沢保育園の位置する新潟市中央区の下町地域の小学校、入舟・栄・湊・豊照の四校が生徒数減少のため今年の3月末で閉校することになり、同校区の生徒達は27年4月から新しく開設される日和山小学校一校に統合されることになりました。校舎は現在の栄小学校を建て替えて2年後に新校舎となる予定ですが、それまでの2年間、現在の入舟小学校の校舎を使用通学することになっている。
 昭和19年に豊照小学校を卒業した筆者ですが、実は近年、同校の同窓会に関係ありましたので、同校の閉校に際していろいろと関わらせていただきました。
 創立142年の歴史の豊照校、旧新潟町以来の新潟市の中で鏡淵校とともにもっとも古い歴史の母校が閉校になるとは、感無量です。明治6年(1873)、明治新政府が文明開化事業の大目玉として義務教育制度を発足、当時の新潟町(現在の新潟島地域)に五校を開設した。その五校とは鏡淵校・西堀校・四番堀校・洲崎校・豊照校で、豊照校以外はそれぞれ超願寺・光林寺・真宗寺・長音寺等の寺院で発足した。豊照校だけは北毘沙門町の料亭の建物を借家して校名を始め「勇進舘」で開校。程なく現在の敷地の見方町に校舎を新築移転し校名は隣接町内にあった豊照稲荷神社に因み豊照校となった。

 さて、上掲の昭和18年(1943)の豊照校創立70周年記念式の写真です。この中に私(園長)は生徒として入っている。写真正面演壇上は校長坂井義雄先生。その右手上の扁額には「自彊不息(じきょうふそく)」の四文字が書かれている。三条市出身の鈴木壮六陸軍大将の筆によるもの。語句の出典は孔子の論語、全文は上掲の「天行健(てんこうけん)にして君子(くんし・心がけ正しい人)は自彊(じきょう)にやまず」となる。その意味は、「天の日・月・星の規則正しい動きのように心がけある人は常に自分を強める努力を止める事がない」。彊は強と同意。「不息」は息をするようにやめないことを意味する。執筆者が軍人のため処分されたのか現在所在不明。その力強い字影はいまでもはっきりと目に浮かんでくる。

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 冬の二月初旬、新潟市内西区赤塚の佐潟(サガタ)沿いを車で東京からの友人と走った。佐潟は知る人ぞ知る白鳥飛来数が7000羽以上と水原(スイバラ)の瓢湖(ヒョウコ)よりも多い日本一のスポット、つい先年までは自然が多く残っていた街道沿いの湖岸、今はすっかりと整備され、駐車場、ベンチや公衆トイレなども設置された。白鳥見物もありそこで一服。

 頭上や水面に舞い遊ぶ白鳥を眺めながら文学好きの友人の脳裏に浮かんだのが上掲の短歌。私に向かって『白鳥を見てこの歌をおもいだしましたが作者が思い出せません。ご存じですか?』 たしかに有名な聞き覚えのある短歌。だが残念ながら私も思い出せなかった。たしか明治期のものと懐かしい気持ちでその後確かめた。

 作者は旅と酒をこよなく愛した明治18年(1885)宮崎県生まれの歌人若山牧水(ぼくすい)。

房総沖を詠んだと言われる白鳥の歌の解釈は次の様になるのでしょうか。

  「(ハクチョウではない)白い鳥(カモメ?)が空の青色にも別の海のアヲ色にも負けないはっきりとした白を際立たせて水の上を漂っているその姿のいじらしいことよ。」

 時には明治人のセンスにも親しんでみましょう。牧水の旅の歌・酒の歌を数首:

   幾山河越えさり行かば寂しさの  はてなむ国ぞ今日も旅ゆく

   上野と越後の国のさかひなる  峰の髙きに雪ふりにけり

   人の世にたのしみ多し然れども  酒なしにして何のたのしみ

 しっかりと酒と旅を楽しんだ牧水、肝硬変で昭和3年43歳で早々とあの世に旅立った。

  注)上野=こうずけ=群馬県

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≪節分≫|2015年2月

昨年暮れの12月初旬・中旬には二度にわたって30㌢余の降雪があり暖冬予想の気象庁の長期予報も見事に大外れと思われたが予報の修正はなかった。

 立春の前の十五日を旧暦の二十四節気では大寒と呼んで一年で最も寒冷な時期なのだが、今冬の新潟市はどうだろう。その後本格的な降雪もなく、今日29日現在積雪はゼロ。新潟市は記録的な無雪暖冬といえる。

 立春の日を境に旧暦では年があらたまり旧年の邪気(鬼)を追い払って新年を迎えるために鬼の嫌う豆をまいて退散させ新しい年を迎えるというのが「節分の豆まき」。昨年の『園だより2月号』では日本テレビの朝の番組全国ネット[ZIP!]の「ハテナビコーナーの園児達の取材放送予定紹介した。その放送のご記憶の方もおられるかと思います。

 実は今年も年明け早々東京のテレビ局TBS が新潟の子ども達が雪だるまと遊ぶ情景の取材に訪問したいと申し入れがありましたが、せっかくですが雪が全くないのでと辞退いたしました。その電話の頃も今も連日のお天気情報は新潟地方は毎日のように雪を報じている。新潟地方として確かに降雪はあっても新潟市は積雪ゼロと言ってももなかなか信じてくれません。全国放映のための取材申し込みだっただけに残念でした。ほんとに近年の気候はどうなっているのでしょう?

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 「園だより」の中でこれまで数多くの有用な名言・格言などを紹介して参りました。これからもそれは心がけます。

 ことわざはそれが 多くの人にその内容の確かさや当然性に「がってんがってん」と肯定せざるをえない言葉や気持ち、願望等が端的にこめられており、その納得性の高いものが諺(ことわざ)として残ります。別の言い方をするならば「ことわざ」はご先祖の残してくれた「生活の知恵、心の指針」の言葉の塊り、貴重な遺産お宝なのです。

 また俳句かるたは自然や心の動きをもっとも端的に美しく切り取った名句ばかりです。 「かるた大会」で使用している「かるた」は実にその名句・名言の倉庫なのです。

 例えば「諺かるた」の中の一つに「桃栗三年 柿八年」があります。これは、文字通り桃や栗の木は芽生えてから果実をつけるまで三年かかるよ、柿は八年かかるよと言っている。植物の生育するさまの表現がなぜ諺になるのか。桃も栗も実をつけるまで3年を要するかもしれないが3年経てば桃や栗は放っていても大半は実をつけるものだと、それが自然だよと教えている。その時期を早めたり遅くすることは不自然なんだよとも告げている。

 あるいはその三年を早めたり遅らすことは出来るかもしれない、がそれにはそれなり特別な工夫や努力が必要でありそれなりの副作用があることも考えなくてはならない。そのようなことを一々考える事は深読み過ぎではとの思いもあるが、どう深読みするかで諺の意味が成り立つのでは‥。

 この句にはこんな後句があるのをご存じですか。
 「桃栗三年 柿八年 柚子(ユズ)の大バカ十六年」

 「俳句かるた」から一句:
 雪解けて村いっぱいの子どもかな   小林一茶

 一茶は新潟県境に近い雪深い信州柏原の出身、長い冬の間じっと家の中にこもっていた子どもたちが春とともにいっせいに外に飛び出して声を張り上げる、ひっそりしていた村がいっぺんに賑やかになる。

今の日本中がそうありたいですね。

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 新年恒例の石井式漢字かるた新潟県大会、今回は第15回を数えます。

 日時は1月10日(土)午前10時開会、場所は中央区上所「新潟ユニゾンプラザ」:参加者は総数198名。

 参加園は三条市きらきら、本成寺、ふじの木、新潟市西蒲区竹の町、秋葉区敬愛、江南区割野、そして中央区赤沢の計7園。

 今年も三条の3園さんに大部分を持って行かれました。 赤沢は諺年長で準優勝、俳句年長・年中各三位、その他入賞者6名と善戦健闘、今年はかなり練習を重ねましたが残念ながら優勝は全部三条さんでした。

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