園だより」カテゴリーアーカイブ

雨水|2017年3月

 旧暦では一年の始まりは現在の暦の2月からで、その最初が立春です。

 また旧暦では一月二月のように月の名称の他に一年を24等分してそれを節気(せっき)と呼びました。各節気は中国古来の農業本位に添ってその時期に相当する自然気象現象を反映する名称がつけられている。

 表題の雨水ですが、最初の節気の立春に続いて2番目が雨水で「うすい」と呼びます。今年の場合はカレンダーの2月18日から3月4日までがそれに当たります。気温も徐々に温かくなり降る雪も雨に変る時期ということです。 3月の到来を告げる節気ということです。月日の経過の速さにいまさら驚きます。今月末には「ぞう組」の皆さんが卒園し小学生になるのかと思うと毎年のことながら3月を迎えると感無量です。

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「はだし保育」

 何年か前の話になりますが卒園児の中で卒園後順調に進学し、東京大学理学部にストレートで入ったK君、が居りました。その彼に一度会って話を聞きたいと思っておりました。彼の保育園の想い出を聞いてみたかったのです。彼にとっての「赤沢保育園」はどうだったのかと、保育者としても大いに気がかりなことでした。特に「漢字かるた」や「英語遊び」「体育遊び」等が彼のその後に良くも悪くもどんなふうにK君のその後に影響したかどうかということです。

 彼の答えは意外でした。彼としては英語も体育もかるたも特にはっきりと念頭にのこってないとのことで、彼にとってはそれらは淡いものだったようです。しかし、彼は保育園のお蔭とずっと感謝の思い感じていたのが「はだし保育」だったとのことです。 外出時は靴下を使用するが帰宅すると真っ先に靴下を脱ぎ、そうすることで頭がすっきりし集中モードに入れるとのことで、はだし習慣を利点として強く感じていたようです。特に真冬時の園の床の冷たさはつらかったが、しかしそれもすぐにに温かくなりその後のすっきり感や動きやすさが何とも快適になりそれが物事への集中を間違いなく高めてくれ好影響をもたらしてくれた。最初の冷たさが頭脳を刺激して目覚めさせ、その後の脳活動を活発にしてくれるのです。

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新潟小学校の皆さん来園ありがとう

 市内の新潟小学校、同校には毎年「赤沢」からも入学しております。同校の5年生の皆さんが総合学習活動の一環として保育園児との交流を計画、2月上旬、9名が来園し「赤沢」のぞう組の園児達と楽しいひと時をすごしました。5年生の皆さんはまず1月末に来園し、計画立案しそれに基づいての訪問活動でした。

 来園5年生の中には「赤沢」卒園生が4名おり懐かしい再会でした。

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お遊戯会

 園の年間行事の最後の締めくくりのお遊戯会。子どもたちは勿論担任保育士にとって最後のがんばりどころ。文字通りの手作り衣装や小道具で工夫をこらしました。無事に予定通り終わりましたことをご報告いたします。

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あくしゅ はしません|2017年2月

 「下手の横好き」の囲碁が趣味の小生ですが、週一回のNHKのテレビ番組「囲碁の時間」の放送で面白い話がありましたのでご紹介します。その番組は囲碁上達のための講座や高段者の対局等など他に視聴者の意見や情報の紹介等があり、その中での話です。

 話はある地方で開かれた囲碁の昇段認定大会のことで、数百人の参加者の並みいる大人たちを打ち負かして優勝したのがなんと6歳の子どもだったのでした。その快挙に感激した投稿者は、6歳の優勝者に近づいてぜひ握手をお願いしたいと希望したところ、なんとその6歳の優勝者に「あくしゅはしませんと」と断られてしまったのでした。優勝者に付き添っていた親御さんや握手を求めた投稿者もその返事にはビックリ。なぜとそのわけをたずねると、優勝者の受け止めた「あくしゅ」の理解は「握手」ではなく「悪手」だったのでした。その優勝者は日頃大人たちに混じり対局を重ねるなかで、常に「悪手をしないように、悪手は命取りだよ」との指導者の教えを忠実に守ることを心掛けていたのですね。幼い優勝者の頭の中は囲碁一色だったのです。

 囲碁の昇段大会などに参加する人は、実力はそれぞれピンキリかもしれませんが熱意は人一倍な方ばかりのはずです。

 それはともかく6歳の優勝者にとって対局者はすべて大人です。大の大人が必死になって頭脳を振り絞って考えても実力の世界は年齢に関係なく決まります。囲碁にしても将棋にしても盤上では容赦ない実力の格闘技です。

 スポーツ、絵画、音楽、手芸等などなにごともそれを体得するためには年齢的には早い方がいいことは分かります。そうはいってもそれを可能にするにはその前にいろいろな問題があってそれを克服しなければ実行できません。

 話は変わりますが先日の全日本卓球選手権大会のシングルス女子の結果ですが、リオ・オリンピックで大活躍した日本の女子卓球界のナンバーワンの22歳の石川佳純選手が16歳の平野美宇選手に敗れてしまったのには驚きました。敗れた瞬間の石川選手の茫然とした姿は印象的でした。石川選手のオリンピックでの活躍。彼女のナンバーワンの地位はしばらく続くのではと漠然と思っていたのですが厳しいですね。

 子育て真っ最中の皆さんにとってわが子にどんなことを学ばせようか、どんな将来に向いてもらおうかといったことが一番の関心事かと思います。とはいってもこの問題は望めば望むほどに難問題です。難しい問題どころか一つの答えはないでしょう。習い事を含めてその機会を出来るだけ多くをと望むのは親心ですが、そんな風に親が懸命になればなる程子どもはかえって反発することもあります。

 メーテルリンクの青い鳥の話を思い出してみて下さい。幸せを求めていろいろ探し求めたが結局幸せは遠くにあるものではなく身近なものだとわかったいう話です。皆さんそれぞれの境遇に合わせて努力してみることです。その努力する気持ちを忘れないで常に保持するように努めることではないでしょうか。

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新春かるた大会無事おわりました

 新年早々の1月7日(土)、会場は市内中央区上所の新潟ユニゾンプラザで三条市の3園、新潟市内の4園の計221名の参加者の下で「第17回石井式漢字かるた新潟県大会」の熱戦がくりひろげられました。

 かるたは諺(ことわざ)と俳句の2部門に分かれておりますが、それぞれの部門の入賞者と写真は細かいですが右の写真と名簿のとおりです。

 入賞者の皆さんにとっての入賞トロフィや盾は一生の楽しい思い出になるはずです。入賞できなかった人にとっては残念な思いかもしれませんが、その口惜しい思い出もこれからの励みにしてがんばりの原動力にしましょう。

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2016年もあと数日になりました|2017年1月

 今年もあと数日で過ぎ去ろうとしております。

 平成28年、4月に熊本県地震、世界的には8月にリオ・オリンピック、その他アメリカ大統領選等々実にいろいろな事がありましたが、あと数日で2017年と年があらたまります。

 12月の「園だより」で今年の夏・秋の季節気候の動きがおよそ50年前の「三八豪雪(1964年)」直前の気候の変化とよく似てので豪雪再来がなければとの気象庁の懸念に触れましたが、現在のところまだその兆候はありません。と言っても冬の到来はこれからのこと、今の段階ではまったく不明です。しかし北海道の12月の降雪は50年ぶりの大雪とのことでその50年ぶりが気になりますが今のところ東北地方や新潟県にはまだ「豪雪」のどころか全くの暖冬状態、と言ってもまだほんの冬のとばくちです。これから先はわかりませんがほどほどの降雪でお願いしたいものです。

 今年の流行語の中で「保育園落ちた、日本死ね」が入ったのには保育園関係者としてはまさかとは思っておりましたがびっくりしました。保育園に対する関心話題が高まりそんな言葉が国会を動かしたり保育園関係語句が年間流行語に入るなどは問題意識や世間の保育に対する関心が過熱状態と言えるかと思われます。もともと得体の知れない出所不明の言葉のとばっちりで国のお役人たちは世間に対する言い訳・言い逃れ対策として、躍起になってやたらと保育制度利用にバリアー・規制を細かく設置している現状だ。その中には施設運営の個性と自由を制限するいやらしさとせこいものを感じている。現在のそれも首都圏京浜地区に集中する入園希望の過密事情を全国一律に画一的に律しようとする焦りを強く感じる。こんな国の動きは日本の子育て環境を細かくせこい方向に向けているだけで明るい闊達な子育て環境の構築方向に向いているとは到底思えないもどかしさを感じるばかりだ。

 先の大戦後の約70年前、いわゆる団塊の頃の年間出生数はおよそ270万人、それが今年の推定出生数がその3分の1に近い98万人に落ち込んでいる。それにひきかえ今年の死亡数は約130万人が予想され差引日本全体で約32万人の人口減少がみこまれる。これは県庁所在地の秋田市や盛岡市に相当する人口が一年で消滅することになり大変な問題だ。

 そんな数字確認のため国の人口動態統計を調べていると次のような興味深い数字に出くわした。 年間婚姻件数が約62万1000組に対して離婚件数が21万7000組という数字である。何のことはない結婚3組に対して1組の割合で離婚していることになる。いろいろな事情があるにしても高い比率に驚いている。

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 今年のクリスマスお楽しみ会は思わぬ豪華版となりました。

 ひよこ組のお母さんのお一人、高校の音楽の先生をなさっている Sさんがご友人の大学の音楽講師のソプラノ歌手のNさんと一緒に園児たちのために音楽プレゼントをしたいとのご提案をいただきました。喜んでお受けすることにしている矢先にまた別に園の英語遊びの先生AJさんが(6年間勤務し急に退職したマルコ先生の後任)お得意のチェロ演奏を子どもたちにしてあげたいとのご提案。またそれとは別にサンタ役は新潟大学の学生さんのご協力をお願いしておりましたので本当ににぎやかなクリスマスになりました。

 子どもたちにとって本物の楽器による「聖しこの夜」や本格歌手による「赤鼻のトナカイ」や「サンタクロスがやってくる」等々本当にありがとうございました。

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テルジン・マルコ先生さようなら

 この12月6日のレッスンが終了したところで話があるとの申し出で、それがその日を最後にしたいとの話でした。理由は一家で(日本人の奥さんと子ども4歳男と2歳女の4人)ニュージーランドに長期滞在し永住も考えているとのこと。

 もともとマルコ先生は英国ロンドンの1976年生まれ。ロンドンの大学を卒業、その後スペインのj地中海に面したマラガ市で同地の大学も卒業。父はセルビア人、母はイラン出身でスペインのマラガ市にお住まいとか。大変な旅行大好きで当園勤務中も毎年夏は一か月以上の旅行を楽しんでいた。旅行先はチベット・モンゴル・タイ・シンガポール等。日本国内では昨年当時3歳の長男と一緒に富士登山をしている。旅スタイルは文字通りパックパッカー、友人先を訪ねたりしてのエコノミー旅行、とにかく日本流の物差しでは測りきれない自由な考え方、活き方を楽しんでいる。

 当園との縁は平成22年4月からですから6年8月間園児たちと親しんでくださった。彼の子どもさんたちは英語・スペイン語・日本語と三か国語トリリンガル。今後のご一家のご多幸を祈ります。

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皆さんコスタリカ国をご存じですが。

 急なマルコ先生の退職、しかし彼は後任を用意しておりました。名前はアンタルキーノ・ロメロ・アヴァロス。単にAJ(エージェイ)と呼んでほしいそうです。お年はマルコ先生より一年上の38歳。現在北区の松浜に日本人奥さんとお住まいです。そして彼の国籍が上記の中米コス・タリカなのです。

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ジュニア美術展奨励賞に2名入選

 ぱんだ組とうさぎ組の2名が見事奨励賞に入選しました。おめでとうございます。

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三八豪雪(さんぱちごうせつ)|2016年12月

 昭和37年12月から翌38年1月にかけて降った記録的な大雪のことを三八豪雪と呼んでいる。今年の夏の台風の状況や先日11月25日の東京をはじめ関東地方の降雪や気象状況がその三八豪雪前の気象状況にそっくり似ているとの気象庁の報道が大変気になり当時を思い出してみた。

 昭和38年のその翌年の39年(1964)10月に東京オリンピックが開催されている。当時は、そのオリンピックに間に合うようにと国を挙げての総力を結集して、東京ー大阪間の新幹線や東名高速道路、東京都の首都高速道路などなどが開通している。そしてそれが日本の列車や自動車の高速時代の幕開けでした。そんな頃の一年前に日本を襲ったのがその三八豪雪でした。

 37年暮れに新潟方面に向かった数々の夜行列車(当時は勿論上越新幹線などはなく東京ー新潟間は急行で8時間を要した)が新潟県内で降雪のため何日も立ち往生した。正月を故郷で迎えようと乗車した人々は暖房も途切れ真っ暗な寒冷な列車の中に何日も閉じ込められた。お土産に持参した食品お菓子などを食べて空腹をしのぎ、除雪が功を奏し列車がようやく動き始めたころは、また東京にトンボ返りしたとの切ない話を数多く耳にしました。また新潟市内でも雪の捨て場がなくて2階から出はいりした家も数多くあったそうです。

 今年も残すところあとひと月となりました。熊本地震、トランプ次期大統領、フィリッピンのドテルテ大統領、リオオリンピック、東京都の舛添知事が小池知事と変り、お隣の韓国大統領問題、ここにきて鳥インフルエンザ問題が大きくならなければよいが‥。今年は気になる話題の多い年のようですね。

 三八豪雪の再来のないことを祈ります

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新潟弁あれこれ④

 11月末の大相撲九州場所は横綱鶴竜の優勝で終了した。新発田市出身の小柳(おやなぎ)が新十両に昇進して十両優勝に絡む大活躍。来場所の活躍が楽しみだ。

 力士名は力士の郷土に因んだ山や川等の地名やキラキラ名や威勢の良い名称が多いが最近は名字そのままを力士名にしている例が多くなった。幕内では高安、遠藤、石浦、正代や十両では里山、佐藤、山口そして小柳が本名そのままを力士名としている。その小柳の読み方だが新潟では「オヤナギ」が普通だと思っているが新潟県以外の場合は「コヤナギ」と読む例が多いようだ。お古い話ですが一世を風靡した「瀬戸の花嫁」を歌った小柳ルミ子は「コヤナギ」だ。

 同じような例が五十嵐姓の場合にもある。新潟では「イカラシ」と濁らないが他府県の場合「イガラシ」と濁って読む場合が多い。

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縄跳び大会

 園では毎年11月末に縄跳び大会を開催している。子どもたちは10月の半ばころから練習をはじている。始めは子どもたちの関心の度合いもまちまちだが、次第に熱意が高まっていくのがよくわかる。最初はまるで跳べなかった子どもたちが日を重ねるにつれて上達していく。なかなか要領がつかめなくていつまでも跳べない子どももいる。いったん要領がわかってくるとそれからは見違えるように練習に打ち込むようになる。その結果は、跳ぶスタイルや回数に比例してあらわれる。そんな練習努力の結果が子どもたち自身にもよく理解しそれがその後の大きな励みになる。努力練習の成果が子どもたちなりによくわかるよい機会だ。下表は11月30日の大会結果。

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蚤虱 馬の尿する 枕もと 松尾芭蕉|2016年11月

 「ノミ・シラミ うまのシトする まくらもと」 。 この句は 江戸時代の俳人松尾芭蕉の旅日記「奥のほそみち」に記されている。芭蕉が327年前の元禄2年(1689年)5月に江戸を発ち、東北、越後、北陸を経て現在の岐阜県大垣へとおよそ2,400㎞を徒歩で約5ヶ月をかけて旅をした。その道中旅日記が「奥のほそみち」で、上掲の句は宮城県の鳴子温泉の近くの尿前(しとまえ)という地名の所に宿した際に詠んだもの。芭蕉はその後越後出雲崎では「荒海や 佐渡によこたふ 天の河」の句を詠んでいる。

 前置きが長くなりましたが実はこれからのお話は「虱(シラミ)」のお話しです。

 近年日本を訪れる外国人が年々増加している。特に 電化製品や日用品を大量購入する中国人の爆買いが話題になりましたが、一時より鎮静化して少なくなったようです。観光や商目的の訪日外国人は年々増加しております。日本に対する関心が高まり多くの外国人が来訪することは大いに結構なことです。 しかし、いいことばかりではありません。

 昨年神宮外苑の森がデング熱の発生源ではないかと大がかりな媒体の蚊の駆除作業が実施されたことはご記憶のとおり。この場合は訪日外国人ではなく外国帰りの日本人が持ち帰ったものだったようでしたが、何れにしろ外国からはいろいろなものが入ってくるようになりました。

 持ち込まれて都合の悪いものの中には病原菌の他に害虫があります。中でも日常生活にとってノミ やシラミ があります。いま日本国内では言葉としてのノミ・シラミを知っていても実際に直接に現物を見たことのある人は極めて少ない。300年前の徳川時代どころか第2次世界大戦後の数年は日本人の生活の中ではノミ・シラミが大繁殖した。当時日本を占領中だった米国軍は、殺虫剤DDTを学校や人の多く集まる駅前などで生徒や通行人に対して衣服や頭髪に白い粉末DDTを徹底的に散布したものでした。しかし、その人権無視も甚だしかった徹底的な散布のお蔭で日本国内のノミ・シラミはほぼ絶滅状態となり、その姿を見ることなく半世紀以上の年月が経過した。その後、DDTの使用は発がん性があるとの理由から、1970年代から世界的に使用禁止となった。

 DDTの使用がなくなったことに加えて外国からの持ち込みもあって、日本国内ではいろいろな害虫、特にシラミの発生が散見されるようになったようです。

 シラミと言っても何種類かありますが、衣服に寄生する「ころもシラミ」や頭髪に寄生する「あたまシラミ」や陰毛に寄生する「けジラミ」があるが、特にここで問題にするのは「あたま・シラミ」です。

 頭の毛髪の中に寄生する「あたま・シラミ」の発生が全国的みられるようになり、最近、新潟市内の小学校や保育園などでの発生も耳にします。

 シラミにいったん寄生されると「あたまシラミ」の場合、まず頭が猛烈にかゆくなります。子どもがやたらに頭をかゆがったりしている場合、その寄生があるかどうかをうたぐってみてください。寄生している場合下図のような虫がいるかどうかを注意深く確認してください。また成虫が見えなくとも毛髪に1ミリほどの白い卵の付着があれば寄生はかくじつです。卵はさわったくらいでは絶対に落ちません。普通のシャンプーで洗っても絶対に駆除はできません。駆除専用シャンプーを薬局で購入してその使用説明書に従って駆除して下さい。(下図実物の寸法は縦2ミリ、幅1ミリ位でしょうか)

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新潟弁について その3

「ばんば」
赤ん坊や小さい子どもをおんぶするとき新潟では「ばんば」するという。最近その「ばんば」するという言い方をほとんど耳にしなくなった。大体この頃の母親は前抱きがほとんどで背中に子どもをおんぶすること自体見かけなくなった。子どもでも、大きくなった場合や大人をおんぶするときは普通におんぶすると言ったように記憶しているがどうでしょうか。小さい赤ん坊の場合たまに「ばんば」するという表現を耳にすると、何とも言えないほのぼのとした温かい響きを感じますが単なる思い込みでしょうか。 

「しょうたれこき」
だらしなく周囲を不潔乱雑の状態にする人のことを「しょうたれこき」あるいは「しょったれこき」ともいう。
常習的に一定の行動をくりかえす人のことを新潟弁では「こき」ということは前回でも触れました。短気ですぐに興奮して怒る人の場合は「怒りこき」となる。またお喋りすきな人は「しゃべっちょこき」となる。 

「もうぞう」、「モーゾ」:
寝言のことを「もうぞう」といいます。妄想が語源でしょうか。何を言っているのかさっぱり意味不明の場合「何もうぞうを言ってるんだ」とこんな風に言いましたがいまはどうでしょうか?語源的に同じ表現からでしょうか、老人性痴呆いわゆるボケ・認知症になってしまった場合、新潟では「もうぐれる」と言いますが、これも今はどうでしょうか‥?
「年のせいかあのバアーさんもすっかりもうぐれてしもて、どうしょうもないてば」 と。 

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秋です:爽やかな季節を満喫しましょう|2016年10月

 10月、厳しい冬の季節到来前のいっときの爽やかな時期です。人里の低地の紅葉はまだですが、山の高地ではすでに始まる頃です。富士山初冠雪の報道もそろそろです。リオ・オリンピックの興奮も終わり、プロ野球やサッカーリーグ戦も最終局面に入り、新潟人にとっては地元のアルビレックスのJ1残留が気になります。

 厳しい夏の暑さも去りました。子どもさんと一緒に手近な里山ハイキングを楽しまれてはいかがですか‥。子どもと思っていても3歳頃になると急速に体力がついてきます。そんな時に体力試しにもなる山歩きは、頂上に達したときの達成感、一つのことをやり遂げた時の満足感は子どもにとってもわかりやすい。

 手じかな里山と言っても山は山、街中を遊歩するのと異なり途中で中断してタクシーで帰る事も出来ません。コンビニもありません。そんな普段の便利な生活世界ばかりではなく、別種な環境があることを知ることも貴重な体験です。子どもに限らず大人にとっても山歩きは常に自然の大地から隔離された人工の便利さにどっぷり浸かった生活から離れて、自然に気付くことの素晴らしいきっかけや体験にもなるはずです。

 そうは言ってもいくら里山でもすでに山歩きを体験されている人はともかくそうでない人にとっては勝手の違った手数なことかもしれません。行く先の決定、計画のための調査等々があります。それはしっかり立ててください。そんなバリアーを一度乗り越えて子どもさんのためにもトライしてみませんか。子どもにとっても親にとっても貴重な体験になるはずです。

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先月の園だよりに引き続いて新潟弁について

 8月のある日 ひとりの卒園児が保育園に顔を見せた。小学校4年生のその子は卒園と同時に両親の仕事の都合で長野県上田市に引っ越して行った。その子は女子ながらも元気印のかたまりのような外向的行動派のたくましいタイプでした。在園中も縄跳びやカルタ取りなどは常に最上位の成績だった。行動派だっただけによく一人で遠方まで飛び歩くので誘拐事件や交通事故にならなければとそんな気がかりな子でもあった。長野県への転居、もともと新潟下町育ちだっただけに言葉の違いからのいじめ問題にあわなければと気がかりだった。それとなく学校生活に触れてみたがやはり懸念のとおり学校生活は楽しくないようだ。その要因の一つとして言葉の違いがあるのではと尋ねたらそのとおりとの答え。あまりそればかりを話題にする事も出来ないまま、5分ほどおしゃべりをして彼女は名残惜しそうに去って行った。これからうまく問題を乗り越えて彼女なりに環境に適合することを願うばかりだ。

 「おはよーございます、今日のあんべぇなじらね?」
 老人同志や普通の新潟人同志が一日の始めに取り交わすごくごく普通のおなじみの会話で、新潟人にとってはぴったりくる和やかな出合いのあいさつ言葉だ。

 昭和初期生れの昭和人にとっては、今の新潟弁はたしかに標準語と大差がなくなり他府県人にとって分かりやすくなった半面、なにかぴったりくるもの(インパクト)が薄れて隔靴掻痒(かっかそうよう:靴の上からかゆいところをかく)ような物足りなさを感じるのは否めない。

 「こっちゃり」
 まったく耳にすることがなくなったが、「こっちゃり」とは嬉しいとか思わぬ儲けものしたときに使う表現で、何かがうまくいって思わぬトクをしたときは「おおこっちゃりした」といった言い方をした。サッカー相手方がオウンゴールしてくれたときはまさに「おおこっちゃり」だ。

 「ちょろけ」
 ふざけたり面白い仕草や動きで人を笑わせたりすることを「ちょろける」と言った。いわゆる3枚目的愛嬌動作ギャグで他人を楽しませてくれる楽しいキャラクターの人を「ちょろけこき」といったりする。「○○こき」という表現は「うそつき」という言い方を新潟弁では「嘘こき」のように言ったりする。また動詞的に「ちょろける」といった言い方もした。

 「のめしこき」
 朝起きの苦手は「寝坊こき」、物事の手順を忠実に守らないで手抜きや怠けることを「のめし」と言い、その常習犯や怠け者を「のめしこき」という言い方は今でも新潟では通用しているでは。

 また試験対策の参考書や虎の巻のことを「のめし」と呼んだ。考えてみるとその言い方は新潟独特のもので他府県や今の学生には全く通じないのでは。

 「あちさん」
 新潟以外の人にとって分かりにくい言い方の一つに「あちさん」がある。よその人のことを意味する「あちらさん」を省略して「あちさん」になったかと推定される丁寧な言い方である。

 他人の邪魔や迷惑にならないようにとの配慮から「これはあちさんの物だからさわっちゃだめだよ」とか「あちさんが居るから静かにしましょうね」と云った言い方をする。この言い方が他所の人にとって分かりにくい。「阿智・阿知さん」という名字を想像し、それにしてもなんとまあー「阿智さん」という方が多いのかと不思議に思ってしまいます。

 「ゲッポになったらショーウシらて」
 10月は「体育の日」もあり運動会も多い。かけっこなどの順位でビリになることを新潟弁では「ゲッポになる」と言う。ゲッポとは下方が語源か? ショーウシは笑止とも書き平安期の文書にもあり、恥ずかしいとか気の毒を意味する。

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成せば成る|2016年9月

 8月上旬から中旬はリオ・オリンピックの毎日でした。閉会後は何か日本中が急に静かになったような気がします。日本代表選手たちの獲得メダル数は金メダルが41個とこれまでの最多だったそうで、よく頑張りました。金メダル数では国別6番目。テレビ画像ではほとんど日本選手の活躍が主ですが、たまに他国選手の活躍が放映されるとそれはそれ、いろんな国がいろいろな競技があるもんだなとつくづく感じました。

 そしてそのそれぞれの活躍を観戦しながら、人間業を絶する妙技を目にする時、絶えず私の頭に浮かんだ言葉が実は上記の上杉治憲鷹山(はるのり・ようざん)公の「成せば成る‥」でした。

 この言葉の上杉鷹山公について少し触れてみます。

 上杉治憲鷹山はもともとは九州日向(宮崎県)の3万石の小藩高鍋藩秋月家の出身。10歳の折米沢藩の養子となり、17歳で藩を継ぎ35歳まで藩主を勤めた。藩主を退いてから鷹山と号した。

 米沢藩上杉家初代藩主は上杉謙信の養子景勝、景勝は家老直江兼続の働きもあって豊臣秀吉に認められ会津120万石の領主となった。その後関ヶ原の戦いで反徳川軍についたため上杉家は本来取り潰しになるところを再び家老直江兼続の働きで米沢30万石に縮小されたが存続、さらにその後跡継ぎ問題の不手際のため15万石に減らされた。

 しかし、上杉家は財政的に縮小したにも関わらず藩士の削減・リストラはしなかった。もちろん倹約に努めたが財政は極度に悪化、治憲が藩主を17歳で引き継いだ頃は破産状態だった。当然治憲の改革に対する努力は筆舌に尽くし難いものだった。

 120万石当時の裕福な大藩時代の経済感覚から抜け出ることはそう簡単なことではなかった。治憲が藩主として諸策を提案しても、養子の悲しさ小藩3万石とは諸事ことなるのですと家老や老臣たちからは軽くあしらわれるという連続だった。

 しかも治憲のとった政治姿勢は現代にも通じるきわめて民主的なもので、年貢の決めなども農民百姓や商人が納得する形をとり、決して権力づく強制・強権的な態度はとらなかった。地場産業を奨励し、さらに和紙つくりや機織りの技術を他所から指導者を招いて奨励発展に力を入れたりときわめて地道に根気よく積み重ねていった。当然そのための原動力となる植物、漆器の元となる漆の木の植林し、和紙の原料となるコウゾやミツマタ、染料の原料ベニバナの栽培等々にも力を入れた。

 上杉治憲が10代治広に譲位するにあたって次のような言葉を伝国(藩)の辞としてあたえている。
①国・藩は子孫に伝えるものであって藩主の私物ではない。
②領民は国・藩のためにあって藩主の私物ではない。
③国・藩は領民ために存在し藩主ためにあるのではない。

 米国の故ケネデイ大統領やビル・クリントン元大統領が尊敬する日本人として上杉鷹山をあげたそうです。

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 園の入口正面玄関の一角に熱帯魚の水槽が置いてあります。写真はその熱帯魚ミッキイマウス・テトラ、 その他数種類の熱帯魚が泳いでます。ミッキイマウス・テトラはこの小さな水槽の中でちゃんと繁殖しているのです。注意深く観察すると体長数ミリの小さな半透明な稚魚を見つけることができます。園児の中でもはそれに気付いてその成長を楽しみに見守っている子もおります。

 創立百周年の折りに設置したこの水槽、設置して26年になります。ところが今ちょうど孵化(フカ)したばかりの稚魚が何匹か泳いでおります。このように小さな可愛い稚魚や虫が孵化することを新潟弁で「ミヨケル」と言いました。*孵化=卵から生物がかえること。

 「言いました」と過去形にしたのはこの言い方を最近耳にした覚えがないからです。身近の職員に尋ねてみました。凡そ30歳台が分水嶺のようです。もともと新潟育ちの40歳以上の人は大体わかるようですが、20歳代の人はほとんど知らないようです。

 テレビナドのお蔭で九州鹿児島の言葉も、青森の人もずいぶんと同じような喋り方になりました。と言っても文字に書けば区別がつきにくいがその土地の人がそれも年配者が話されるとさっぱり聞き取れないことがあります。聞き取りにくくともその土地独特な喋り方を耳にすると、今まさによその土地・人と接して居るんだと実感します。

 方言や訛りの違いがなくなることはわかりやすくて都合の良いこともありますが、旅に出たときその実感が薄くなります。

 昭和一けた生れの園長、子どもの頃の新潟弁がなつかしい。
今、ジャンケンをするとき口にする言い方は日本全国どこでも「ジャンケンポン」ようだが、昭和の初めの頃の新潟の男の子は「ちゃいろ、ちゃいろ、ちゃいろえっす」と掛け声したものでした。「ジャンケンポン」という言い方は女の子が気取ったおしゃれな言い方で、当時の新潟の男の子はそんな言い方はこっぱずかしくて決して言わなかった。

 当時、西蒲原の中之口の子どもたちが「ほおうけんや」といっていたのを耳にしてびっくりした記憶があります。当時は土地土地によって「ジャンケン」の掛け声は随分ちがったようでした。

 今、新潟弁と言っても標準語とほとんど変わらくなりましたが、l喋るときの抑揚やアクセントには違いがでる。さらに新潟の人は「イ」と「エ」の区別が苦手だ。「越後の苺」を「イチゴのエチゴ」と言ったりと‥。

 私自身、「みなさん椅子も持ってきて来て下さい」と言ったつもりが「いす」を「エス」と発音したため「エス」って何のことですかと東京の職場で聞き返されたことがありました。

 また、雀、鯨、鼠を新潟弁ではそれぞれ「すずめ」「くじら」「ねずみ」のように初めの太字にアクセントをつけますが、一般的にはそれがありません。

 新潟弁にはまた別の機会に触れたいと思います。

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親の意見と茄子・なすびの花は千に一つの無駄はない|2016年8月

 「7月園だより」で東京都の舛添前知事辞任の話題に触れました。クリーンな政治姿勢を売り物にして自民党を離党して都知事の座を勝ち取った舛添要一氏が、そのイメージとかけ離れたあまりにもセコイ金銭感覚にすっかりさめてしまいました。つくづく人の本性の見極めの難しさを感じた問題でした。「園だより」で彼は親の意見をきいたことがあったものかどうかと感想を述べました。

 そこで「親の意見」が気になってきました。正直、わたくし自身の場合親の意見忠告はまたかとの印象が先に立ってそれが正しいとわかっていても素直に従わなかったかあるいは反発が先に立って受け入れることが多くはなかったように思い出せます。後になってどうして素直に言うことが聞けなかったのかと反省したことは一再ならずでした。

 表題の格言ですが、茄子・なすの花は花だけで終わらないで確実に結実する率が高いことからこの言葉が生れたわけですが、実際の話、結実率は3割位だそうですがそれはそれとして「親」が関わる格言を考えてみたいと思います。

「親の意見と冷酒は後でじっくり利いてくる」こんな格言もあります。

 皆さんそれぞれ親の立場です。子どもたちに折に触れ注意や意見・希望頼みごと等子どもに対して多々あるかと思います。絶えず口うるさく言っていると反発招くばかりか逆効果になる場合もあります。

 ちょっと汚い言葉遣い恐縮ですが「親の意見と牛の小便」こんな喩えもあります。

 牛の小便はだらだらと時間が長くかかる割に肥料としてはあまり利かないのだそうです。親の意見もグチグチ長々説教していると逆効果になります。

 有名なところでは「いつまでもあると思うな親と金、いつまでもあると思えよ運と災難」。特に後半の「運と災難」は一生心したいものです。いつまでも親の財産をあてにして結局親離れができなくて親の死亡後も死亡届を出さないで親の年金で暮らしている、そんな切ない話だけはなしにしたいものです。

 「親の心子知らず」
 親の子を思う気持ちもわからないで、子どもは勝手にふるまうこと。

 「子をもって知る親の恩」
 そんな子どもが成長しやがて自分の子どもを持ち、親となって自分の子ども育てるようなると、親の苦労や気持ちがわかってくる。

 「親孝行したいときには親はなし 石に布団は着せられず」
 石は墓石のこと。親が元気の間に親孝行はしたいものです。

 「樹静かならんと欲すれど風やまず 子養わんと欲すれど親待たず」
 生活にようやく余裕が出来、親の面倒をと故郷に帰ったが親はすでに他界していたという中国の故事「風樹の嘆」。

 「親の恩は子で送る」
 親から受けた恩は子供を立派に育てることで恩返しできるということ。この場合の送るは報いる・償うの意味。

 さー皆さん、悔いのない子育てに努力しましょう。

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間もなく リオ・オリンピック  が始まります

 52年前の昭和39(1964)年10月、東京オリンピックが開催されました。その4か月前の6月に新潟地震がありました。この8月5日にブラジルのリオ・デ・ジャネイロでオリンピック始まります。その4か月前の4月に熊本地震が発生しました。まったくの関係のない偶然ですが不思議な符合です。

 その東京オリンピック開催当時、私事で恐縮ですが私は東京郊外の狛江市のある電子部品工場に勤務しておりました。オリンピック競技のハイライトのマラソンコースが都心の四谷のメーンスタジアムから新宿経由で国道20号線・通称甲州街道沿いを走り確か府中市付近が折り返し点でしたでしょうか。優勝したのが当時世界的なトップランナーのエチオピアのアベベ・ビキラ選手、3位が円谷幸吉選手でした。はだしのランナーとしてあまりにも有名なアベペ選手、一目みたいものと勤務先の工場を抜け出して甲州街道に駆け付けたが間に合わず、到着したときはアベベ選手の通過後でした。

 地震とオリンピックとは何の因果関係があるわけではありません。が、今年に入ってからは国内外とも何か物情騒然となり世界的に平和な生活の維持の見通しに陰りが見え隠れするような気になる空気です。

 特に気になるのが宗教上の信条の相違からの争いで戦争行為になり事実上の殺し合いが世界各処にテロ事件として発生し、平和に暮らしている多数の市民が無差別に被害者になっていることです。

 そんな乱暴な殺伐行為がそれを模倣するような類似行為をひきおこしていることも事実です。また、中国や北朝鮮の動きのように必ずしも関係隣国との関係において話し合いではなく、武力・経済力を前面に出して力で押し切ろうとする姿勢、大いに気になるところです。

 オリンピック開催国ブラジルも大いに問題ありで、現在大統領自身が国の最高裁判所から訴追を受け職務執行停止状態、副大統領が大統領職務を勤めるという異常事態も大いに気になるところです。またドーピング問題でロシアの参加もスポーツ強国だけに大会気運に大いに影響ありです。

 日本としても国内的にも熊本地震をはじめなんとまあ落ち着きのない事件が次から次へとおこるものです。特に7月末に起きた相模原市の知的障害者施設の入園者19名が、一人の元職員の加害者によって殺されるというとんでもない事件には言葉を失いました。薬物中毒による異常者ではないかとも思われますが詳細はまだ不明。多数殺人という短絡的な残虐な行為に単純に至るにはイスラム紛争による殺戮行為の影響が多分にあるのではと思われます。

 日本選手団も続々とブラジル入りしております。活躍を期待します。金メダルをいくつ持ってくるでしょうか、楽しみです。

 梅雨も明け暑さも本格的になりました。健康に配慮して楽しく暑い夏を乗り切りましょう。

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今年もはや半ば、七夕を迎えます|2016年7月

 この6月ですが実にいろいろなことがありました。世界的には英国のEU残留・離脱問題が大きな話題でした。日本的には数多い事件の中で、北海道の山林で一時行方不明となり自衛隊宿舎で6日ぶりに無事に発見された小学校2年生の田野岡大和君のこと、お金の使い方で東京都知事の座を追われることになった舛添要一氏のことなどが、話題を集めた多くの出来事の中で子育て中のみなさんにとっても、大きな関心事だったかと思います。

 大和君の件では、当初の父親の証言が二転三転したこともあって、著名な児童評論家などが『躾(しつけ)』と称する日本的なこども対応の在り方の最悪の見本だ、などと父親の対応に情け容赦ない疑問や言葉を投げかけたりといろいろな意見が百出した。父親の予想に反してこどもの発見が遅れ、初めは山菜取りの最中にはぐれたとの証言が、その後、実は大和くんのいたずらに対するお仕置きと躾の意味で、自動車に乗せずに現場に置き去りにしたとの発言に変ると、虐待ではないかと、中には犯罪的意図に基づく行為ではないかなどと周囲の厳しく空気は変わった。実際の子育てとは評論家の先生方の言いたい放題のようにきれいごとなご意見のように”うまく”片づけられることばかりではありません。

 大和君の場合、無事に生還できたからよかったものの事態が長引けば最悪な結末が予想されるだけに、日程的に最悪事態が次第に強く人々の念頭に浮かぶ頃合いに無事生還の知らせに、日本中がホットしたのではないだろうか。このまま未発見の状況が続くならば評論家の『しつけ論議』の行方がどんな方向に進行したものかと想像するにきわめて興味深い。

 幸いにも大和君や大和君一家の親子関係は評論家先生方の推測に反して明るく健康的だっただけにホットさせられた。また大和君自身が自分の行為に対して父親の取った今回の置き去り処置に対しては彼なりに理解し納得していたようだ。

 大和君事件とは舞台も性質も大きく変わりますが金銭問題で東京都知事の座を降りることになった舛添要一氏のこと。彼自身の行為にたいする弁解主張は終始法律に違反しないから問題ないとの姿勢。東大出身でその後も素晴らしい経歴と実績の持ち主。でも彼の姿勢や論調を聞いているうちに、この方の親の躾はいったいどうだったのだろうかと気になってきました。ご自分が優秀なため、他者の言などはおかしくって耳にはいらなかったのでしょうね。

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 30年以上前の話になりますが、保育史調査のため来園された筑波大学研究生の方から教わったのがこの「チクサク・エール」でした。そのエールを幕開けに今年の運動会は、6月18日(土)、日和山小学校室内体育館で予定通り開催いたしました。

 全園児の入場行進・園児代表宣誓・赤沢保育園スペシャルエールに続いて各種競争・紅白球入れ・園児保護者の綱引き等など、最後は恒例の3歳以上園児全員のそして保護者職員による紅白リレー競走、無事にケガや事故もなく楽しく終了することが出来ました。 毎年劇的にレースが盛り上がる紅白リレー、目立って速い走者が勢い余ってカーブで転倒したりと今年も何度か大きな見せ場で歓声が盛り上がりました。遅れを取り返そうと泣き顔で必死に走る子、あきらめ顔でマイペースで頑張る子とそれぞれです。

 運動会では普段見慣れているいつものわが子とは別の一面が発見できるかもしれません。日頃、親の前や家庭では見せたことのない外での顔がみられるのもこんな機会です。

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祝 赤沢保育園創立第百二十六回記念日|2016年6月

 明治23年(1890)6月1日、赤沢保育園は新潟市礎町4丁目に誕生いたしました。この機会に創立者赤澤鍾美と創立のいきさつについて少し詳しく説明をさせていただきます。

 創立者赤澤鍾美は元治元年(1864年)10月16日新潟町に生まれている。名前は始め庄吉だった。戸籍記載によると庄吉の幼少時は必ずしも平穏無事ではなかったようで幼くして他家に養子に出され後年復籍している。

 その後の明治11年4月に庄吉は新潟町の臨時教員試験に合格し四番堀小学校に就職している。今の満年齢の13歳の時だ。

 明治新政府発足当時の教育制度について若干説明すると、まず明治6年、義務教育制度制定、全国に小学校を設置開校を決めた。しかしその実施には教場と教員の確保がまず問題となり、教場の多くは寺院等を利用した。教員は資格認定採用試験による臨時教員制度を設け、その試験合格者をもって教員に充てた。その受験可能年齢が旧年齢の15歳、15歳は武家時代の元服の年齢に相当した。元服(げんぷく)とは当時一人前の大人とみなした年齢時の武家のセレモニーのこと。当時は生れるとすぐ1歳と数えた旧年齢の数え方で、十月生まれの鍾美は現在の13歳で合格していることになる。当時の漢文づくめの試験問題を恵まれぬ家庭状況でよくぞ合格したものだ。

 臨時教員に採用された赤沢庄吉は、記録によるとまず当時新潟町に五校あった小学校(鏡淵、四番堀、西堀、洲崎、豊照)の四番堀校に就職している。そして五校を順次転勤している。

 明治政府教育制度発足と同時に正式教員養成のため師範学校を設立している。その卒業生を正式教員として配置し順次臨時教員と置き換えていった。

 明治23年当時、赤沢庄吉は豊照小学校に勤務しており住まいは東厩島町でした。柳都大橋の信濃川を後ろにして秣川岸通りを過ぎて最初の交差点が西厩島町(通称こんぴら通り)の端になる。そのこんぴら通りと並行の信濃川寄りの一角が東厩島町だ。

 正式教員と臨時教員との置き換えの波が、明治23年に庄吉の足元に押し寄せてきた。新潟市教員の在籍記録によると、当時の臨時教員は毎年一年契約でその都度身分と給料額が決められ記録されていた。庄吉の場合大略給料は月額6円~10円程だった。因みに当時の校長は20円前後で師範学校出の正式教員は臨時教員の大略倍額だった。

 明治23年に庄吉に示された条件は鏡淵校転勤と給料が月額27銭の大幅ダウンだった。 100銭が1円ですからおおよそ25分の1の減額になる。おそらく非常勤待機職員の処遇となったのでは‥?。そしてその状態は明治26年3月で終わった。

 かねてリストラの波を予想していた庄吉はあらかじめ準備し教員としてアルバイトに力を入れていたようだ。政府が義務教育制度とその普及、国民皆学を叫んでも、当時の一般民衆の暮らしぶりの大半は貧しく、通学どころかその日の暮らしに大半が必死だった。義務教育年齢に達しても入通学できるのはわずか5人に1人の2割程度だった。入学出来ない子どもは任意に読み書きそろばんを教える個人教師や塾に通って学力を得た。庄吉は勤務時間が終わると自宅でせっせと多くの若者を生徒にしていたことが推測できる。

 明治23年4月3日、庄吉住居一帯が自宅を含めて200戸以上焼失する大火発生、自宅での4月開校の計画が挫折した。しかし、すでに庄吉の教えを受けていた通学生や卒業生たちの尽力で200M程離れた礎町に場所を得てスタートしたのが6月1日だった。

 明治26年臨時教員から完全に解放された。

 と同時に庄吉は名を鍾美(あつとみ)と改めた。当時は戸籍の名前の改名が可能だったようです。鍾は集めるという意味があり、美は未来ある若者という意味がある。若い学生を教えることを目指して自身の希望を精一杯込めての改名が理解できる。

 鍾美は私塾を「静修学校」と命名した。その私塾に通う生徒たちが幼い弟妹や奉公先(勤務先)の赤ん坊を背負ったまま受講するものが多かった。鍾美の家族がその幼児たちを一室にまとめて保育の面倒をみたことが、保育事業の先駆けとなりました。

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「とん汁の味はいかがでしたか?」春の遠足!!

おかげさまで好天にめぐまれた5月20日、春の遠足は無事に終わりました。

 今回の「とん汁の味はいかがでしたでしょうか?」毎回同じ分量・レシピで作るのですが、当日の天候によって皆さんのおかわりの量が敏感に変わります。気温が低いときは温かいとん汁はおなかにしみこみますが暑さを感じるようなときは売れ足は落ちる。

 平成の初め、旧亀田町時代に完成した「亀田公園」、その初めの頃から利用を続けております。最初に下見で訪れた際バーベキュー窯場をみて「とん汁」作りを思いつき、今ではその組み合わせが春の遠足の定番となり25年以上になります。

 開園当初の亀田公園の周囲は向陽高校と県立保育専門学院以外は建物らしいものは見当たらずJR亀田駅も現在の改築前のもので駅舎も素朴で公園側には出口はなかった。公園へは大江山方面に通じる公道の跨線橋を遥々と渡り約2km近い徒歩が必要でした。公園内の樹木も植林したばかりでひょろひょろと頼りなげでこれでちゃんと根付くかと余計な心配をしました。

 下の展望台の写真をご覧ください。公園の西南方向角にあるこの展望台、開園当初は建物の全体が公園のどこからも見えましたが、樹木の成長とともに次第に目立たたなくなりました。公園到着時に毎度この展望台を背景にして記念撮影をしておりますがその存在にはうっかりすると気づかないほどに周囲の樹木が大きく成長しました。

 今、園内には写真屋さんが撮った遠足時のスナップ写真が展示されております。園児と連れ立った皆さん方の楽しそうなシーンを眺めていると、そのどれをみてもぴっかぴかのオーラを感じます。小学校に入学時の新一年生のすがたのようにいやそれ以上に新鮮な活力を感じます。人生の中で子育て中のそれも保育園児時期は経過や成果が一番わかりやすい時期ではないでしょうか。思わず声援したくなります。 がんばって幸多かれと!

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