お知らせ

2013/6/1
赤沢保育園第123回創立記念日
     :明治23年(1890)6月1日創立
2013/6/3
衣替え
2013/6/4
歯科検診
2013/6/6
保護者会委員会
2013/6/13
避難訓練:地震想定(全園児参加)
    :昭和39.6.16.新潟地震発生
2013/6/20
お誕生会:6月生まれの園児を皆で祝います
2013/6/26
運動会予行練習(9:30~)
2013/6/29
運動会:豊照小学校体育館にて

平成25年6月 園だより

 明治23年(1890)6月1日、赤沢保育園は新潟市礎町4丁目に誕生した。この機会に創立者赤澤鍾美と創立のいきさつについて少し詳しく説明をさせていただく。

 創立者赤澤鍾美(あつとみ)は戸籍によると元治元年(1864)10月16日新潟町に出生、名前は始め庄吉と称した。戸籍からは庄吉の幼少は家庭的には必ずしも恵まれてなかったことが分る。幼(?)にして他家に養子として入りその後解消している、その年月の記録がないため何歳の時かは不明。また戸籍には両親兄弟の記載がなく37歳年長の養祖母とその娘達(いとこ)と暮らしていたことが記載から判る。

 明治11年4月、鍾美は新潟町公立小学校臨時教員採用試験に合格、小学校教員として四番堀小学校に就職する。鍾美13歳の時のこと。

明治新政府発足当時の教育制度について若干説明すると:
 明治6年、義務教育制度制定、全国に小学校を設置開校を決める。しかしその実施には教場と教員の確保がまず問題となった。教場の多くは寺院を利用した。教員は養成確保のため師範学校をいち早く開設したがその卒業生が全小学校に配置されるまでの間、資格認定採用試験による臨時教員制度を設け、その試験合格者をもって教員に充てた。その受験可能年齢が旧年齢の15歳、15歳は武家時代の元服の年齢。元服(げんぷく)一人前の大人とみなした年齢、当時は生れるとすぐ1歳と数えた旧年齢の数え方。今なら十月生まれの鍾美は13歳、恐らく漢文づくめの試験問題を恵まれぬ家庭状況でよくぞ合格したものだと感想する。

 明治10年代の新潟町の小学校数は5校。そして当時から校名が変わらないのは鏡淵と豊照。鏡淵は西掘通3番町の超願寺に所在し校名は寺裏手に鏡淵という名の池がありその名に由来。

 場所と校名が明治初年から変わらないのは豊照だけ。豊照は学校所在地近くにあった豊照稲荷神社に因んだもの。当時の新潟町の範囲は信濃川左岸(海側)の白山神社下流域で人口は明治22年市制施行時で約4万人だった。

 明治10年代後半になると師範学校卒業の有資格教師が各校に配属され始まると開拓時代に苦労活躍した臨時教員は次々と整理リストラされた。明治時代は現在よりも遥かに厳しかった。明治19年豊照小学校に勤務の鍾美は東厩島町(現保育園東湊町から西南方約300m程の地点)に住居した。

 明治23年、リストラの嵐がまともに鍾美を襲った。それまで月額9円~5円程だった給与が一挙に僅か27銭に減額された。当時の臨時教員は毎年一年契約今話題の契約社員だった。そこで鍾美は退職し小中学校課程の塾・静修学校を創立し依頼を受けて幼児保育も始めた…、がこれまでの定説だった。近年、新潟大元教授F氏の在職中の調査で鍾美の教員の在籍は明治26年まで鏡渕校所属だった記録を発見。同時に給料が前述のように激減したことも判った。明治20年当時の物価は米一俵(60㎏)約2円。調査されたF元教授は鍾美の学校開校は26年以降ではないかと仮説を唱えた。それも一理あるが給与が日当額程度に減額されたことは非常勤の予備軍に配置されたと容易に想定できる。それだけでは生活不可能である。

 学校物事の開始は4月が常識だ。創立記念日が6月であることにはそれなりの理由があった。いつかはリストラと予想して開塾を念頭に在職中からせっせと自宅指導の生徒を取っていたことが容易に想像される。そして4月開校を目指していた。

 昭和9年刊行の新潟市編纂の「新潟市史」によると、明治23年4月3日鍾美住居隣町の住吉町から出火、全焼戸数270戸の大火となり鍾美宅も焼失、4月開校は不可能となった。鍾美の教え子達の開校を願う熱意から隣町の礎町4丁目に教場を兼ねる居宅を得て6月開校となった。

 当時の小学校入学事情は現在とは大幅に異なる。まず義務教育といっても有料で、これは大正10年(1921)まで続いた。明治期の一般庶民の暮らしは今では想像出来ないほど貧しくその日暮らし家庭が多かった。貧乏人の子沢山、多くの家庭が子どもといえども6~8歳から食費倹約口減らしのため他家に下働きや雑事手伝いとして出した。小学校入学は庶民にとっては夢のまた夢、明治初期の小学校入学率は2割程度だった。

 礎町に開校した学校を「静修(せいしゅう)学校」と命名した。子守りしている生徒の赤ん坊を預り世話をした。その保育は鍾美の養祖母と従姉達が当った。そんな経営努力もあって静修学校は繁盛し手狭となり明治26年本町7番町に発展移転した。同年臨時教員籍も完全に離れた鍾美はそれまでの庄吉という名前を鍾美に改め戸籍に登記した。鍾は集めると同義、美は将来ある若者という意味もある。

 本町移転後の静修学校はさらに人気が高まり本町校舎も程なく手狭となった。そこで在学生や卒業生その他有志が協力して資金を集め、明治36年、保育室を含む校舎を東湊町に建設、鍾美に贈った。現在地より50m程西の位置。

 感激した鍾美はそれまで付属業務としてとらえていた保育業務に対して「守孤扶独幼稚児保議会・しゅこふどくようちじほごかい」と命名して本格的に取り組む決意をこめた。現在の保育園の法人名である。その意味は、保育に孤(めぐまれない)の子ども、独は独り親の幼稚児を保護する会と命名した。養祖母に育てられ恵まれなかった鍾美自身の幼少時の思いをこめたものと推定される。後年昭和23年児童福祉法の保育所の定義に通ずる点が多く、その後の研究者の注目を集めた。

 大正8年7月、またまた東湊町1に87戸焼失の大火発生、赤沢校舎も被災した。しかし再び卒在校園生が資金を集めて現在地に建築し鍾美に贈ったのでした。

 例年遠足の日取りは5月の第3~4週頃。今年はバス確保の都合で連休明け早々の10日実施。そのせいかいつも他の何園かと鉢合わせで混雑する亀田公園、今回は赤沢だけの貸し切り状態。天候にも恵まれ楽しく終了することができました。

平成25年6月号

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赤沢保育園とは

日本最初の保育園

 赤沢保育園は明治23年(1890年)に赤沢鍾美(あつとみ)が日本で初めて、幼児達を預かり保育を始めた歴史のある保育園です。長い歴史の中での経験を活かしながら、通常保育に加え、教育学習にも重点を置いており、特色ある保育方針で保育にあたっております。

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