
明治23年(1890年)6月1日に赤沢保育園は創立致しましたので本日は第121回目の記念日に当たります。記念品に代わりましてささやかですが粗菓を用意いたしました。ご賞味のよすがにと拙文にお目通し戴ければ光栄です。
さて当保育園の法人名は左の玄関の看板の通り「守孤扶独幼稚児保護会(しゅこふどくようちじほごかい)」と申しますがその由来と意味するところをご説明させていただきます。
創立者赤澤鍾美(あつとみ)は明治11年から公立小学校の教師を勤めておりましたがその後明治23年小中学校課程の私塾を開設致しました。
当時の教育事情状況について若干ご説明いたしますと、明治初年当時の一般家庭の経済水準は今では想像できないほど貧しく低いものでした。大半の家庭はその日の糧・食糧を確保することで精一杯というところで、せっかく明治政府が明治5年に義務教育制度を発足させ、現在と同様に7歳になると小学校に通学することを義務付けてみても、子どもが一日弁当を持って通学出来るだけの余裕ある家庭は本当に少なかったようです。
明治20年頃の新潟町(新潟市となったのは明治22年)の入学率は20%前後で、すなわち5人に1人がやっとでした。また当時の一般家庭の子ども達は7~8歳ころになると男子は職人の徒弟(見習い弟子・手伝い)や商家の丁稚小僧(でっちこぞう・最下級の見習い奉公人)に女子は裕福な家庭や商家の家事見習い手伝いとか子守りとして生家親元を離れて他家に住み込んで働くことが多かった。その理由の大半はまず口減らしで親の子ども達の食費負担を軽減することでした。
公立校に通学するゆとりのない子女で学習(基礎的な読み書きそろばん等)を心掛けるものは手近な学習所や知識ある個人に何がしかの謝礼(束脩・そくしゅう)を持参してその目的を達したようです。
鍾美は小学校教師でしたのでそのような希望者に恵まれ求めに応じて「静修学校(せいしゅうがっこう)」と命名の私塾を礎町4丁目に開設発足したのが明治23年6月1日のことでした。その後明治26年に本町通り8番町の通称八軒小路に移り、さらに明治36年東湊町通り1ノ町(現在地点の西方40mほどの地点)に移った。礎町・本町通りの舎屋は何れも借家住まいでしたが礎町・本町当時の卒業生在校生が主体となって資金を集めさらに町の有力者などの後援ご協力を戴いて東湊町に専門の舎屋を建設して寄贈を受けて晴れて自前の校舎を保有するに至りました。その新校舎「静修学校」には発足当初から求めに応じて実施していた幼児保育のための保育室も併設されました。創立者鍾美は学校教育が主体で保育事業はついでのつもりで実施していたが、東湊町通に舎屋移転を機に幼児保育についても片手間ではなく本格的に取り組む決意を固めた。そしてその決意を「守孤扶独幼稚児保護会」なる名称で表明したのでした。その意味するところは、「孤は保育に孤なる児を守り、独は独り親を指しその独り親を扶(たす)け、そのような状況の幼稚児を保護する会」と命名した。
その後、昭和23年児童福祉法が制定されその条文の中で保育所の機能が規定定義された。それによると保育所は保育環境が保護者の主として勤労により十分でない(欠ける)児童を援助する保育施設と定義された。「守孤扶独幼稚児保護会」の名称が児童福祉法の保育所の定義の主旨に添っていることと保育活動の開始が明治23年ということから、これぞ保育所の第一号となった次第です。 赤澤鍾美は昭和12年3月、72歳で亡くなりました。孫の現園長6歳のときでした。